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デートの下見デート論 飛行機の衝突事故と有責性他

日々の記録

依頼者様へ。お世話になっております。二〇二四年度、一月一日から一月五日までの調査報告になります。ご参考いただければと存じます。今後ともよろしくお願い申し上げます。

二〇二四年一月一日

希望は傷からはみ出す

地震における傷

二〇二四年一月一日。僕はおせち料理を食べてから、仕事をするべく机に向かっていた。しばらく時間が経って一段落ついたあと、テレビを付けた僕は石川県の地震が報道されているのを知り、その悲惨な状況を茫然と眺めていた。僕が書く文章における傷という言葉は、フロイトの外傷を意識した言葉であり、繁殖という言葉はレヴィナスを意識した言葉なのだろうか。多分、ここにおいて傷というのは女性器の象徴なのだと考えられる。ちなみに、僕はこの文章を書いているとき、ルドンの『ヴィーナスの誕生』のイメージが頭から離れることはなかった。僕はこう書いていた。

全体性と無限

ヒステリー研究

山地大樹

傷と希望

石川県で大地震が起きました。
僕は、何もすることもできませんでした。
なんで、こんなにも自分と関係ないところで、
世界がたくさん傷ついてゆくのか分かりませんでした。
もう世界は傷だらけ、
これ以上の傷を負うのを見たくない。

ガザ地区で戦争が起きました。
僕は、何もすることもできませんでした。
なんで、こんなにも自分と関係ないところで、
世界がたくさん傷ついてゆくのか分かりませんでした。
もう世界は傷だらけ、
これ以上の傷を負うのを見たくない。

傷は治るのだろうか。
傷は治る、そう信じたい。
けれども、これ以上の傷が増え続けるならば、
希望は枯渇してしまうかもしれない。
それは怖い。
それは嫌だ。

だから、僕はこんな一枚のイメージを唄いたい。
傷から希望がはみ出してくるイメージである。
どんなに傷が増えようと、
どんな大きな傷だろうと、
希望の光が滲み出す、
母親から赤ん坊が産まれるように。
傷からの希望の繁殖は、決して失われることはない。

季山時代
2024.01.01

二〇二四年一月二日

飛行機の衝突事故と有責性

飛行機の衝突事故

二〇二四年一月二日。僕は、築地から有明のあたりを視察していた。このあたりを観察すると、たくさんの大型ビルが立ち並び、小型の建物が一つもないような雰囲気が感じられる。タワーマンションが目覚ましい速度で建てられ続け、ララポートは日常に住まう人々で溢れかえっていた。僕は、この雰囲気に怯えていたように見えた。家に帰った僕は、飛行機と飛行機が衝突するニュースを知り、しばらくのあいだ放心状態になっていた。僕が書いた文章を見ると、大型ビルと大型の飛行機が重ね合わされてる、と考えるのは無理のない解釈だろう。何も考えない人は、何かを考えている人よりいつも多いという、ただそれだけのことを伝えたいのかもしれない。左記は視察の記録写真。僕はこう書いていた。

有明体操競技場©季山時代《有明体操競技場》2024

山地大樹

飛行機の衝突

飛行機と飛行機が衝突したというニュースの映像を見た。その衝撃的な映像に、テレビそのものが震えた気がした。一台の大型の飛行機が滑走路に着陸しようとするのだが、その先にもう一台の小型の飛行機が居合わせた結果、飛行機が衝突する。映像を見るかぎり、衝突の瞬間に花火のような大爆発が起きるのだが、大型の飛行機の勢いは止まることなく、慣性の法則にしたがって、炎に包まれた小型の飛行機を引きずりながら進み続ける。機内の写真も悲惨なもので、飛行機特有の角丸の窓のなかは、炎で真っ赤に染まっている。いまのところ、大型の飛行機の内部にいた乗客は全員が無事に脱出して、小型の飛行機の内部にいた乗員は六人中五人が死亡したという。このニュースを見たとき、渦巻くような感情が僕の心のなかに生じるのを感じた。渦巻くような感情、説明しがたいこの感情はどこに由来するのだろうか。少し考えてみたい。

大きいものと小さいものの衝突

心のなかに生じた渦巻くような感情、この感情はどこに由来するのだろうか。被害者がいるので滅多なことは言うべきではないが、僕の心を揺さぶったものを正直に見つめてみると、大きなものと小さなものが衝突したとき、必ず小さなものが負けてしまうという事実に対して、心が揺さぶられたように感じられる。一方の小型の飛行機は、能登半島における地震への対応として、物資輸送のために新潟に向かう予定だったものだという。これが正しいならば、小型の飛行機は被災者の救助という正当な目的のために動いていたと言える。他方の大型の飛行機は通常運行のものであり、そこに乗っていた乗客達の目的は計りかねない、一人ひとりの日々の生活のなかでの物語があるに違いない。このような対立する図式に落としこむならば、僕の違和感の正体が明らかになる。被災者への物資輸送という緊急の目的で動いていた小型の飛行機が、通常運行で人々を運ぶという日常の目的で動いていた大型の飛行機に殺されたこと、この事態が心を打ったのである。

有責な僕たちはどう生きるのか

日常はいつも大きく、非日常はいつも小さい。今回の事故で感じたのは、日常が非日常を押しつぶすほど膨大な権力を持っていることである。もし仮に大型の飛行機に乗っていたらと想像すると、僕は動揺して一歩も動けなくなる。もし観光旅行の帰りだとするならば、みずからの気晴らしが被災者の援助を試みた小型の飛行機を殺してしまったこと、この加害者としての側面に耐えられなくなる。果たして、余暇は人を殺す権利があるのだろうか? もし仕事の帰りだとするならば、その仕事は、被災者を援助しようとする小型の飛行機を殺戮するだけの価値を持つというのか。果たして、仕事は人を殺す権利があるだろうか? 要するにこう思えてしまうのである。僕が日常を生きていること、それ自体が有責なのではないか、と。観光も仕事も、こうした何気ない日常は、あの小型の飛行機を火だるまにして引きずりまわすだけの権利を持っていたのだろうか、と。

一生懸命に生きること

大型の飛行機のなかの荷物の補償がどうなるとか、管制塔で何が起こったか説明しなくてはならないとか、そうした日常が幅を利かせてしまうまえに、日常それ自体に本当に意味があるのかを、大きなものは小さなものを殺す権利があるのかを、もう一度だけ考えなくてはならない。僕は、もう既に日常という大きな飛行機に搭乗してしまっている。だから、いつ小さな飛行機に衝突してしまうか分からない。衝突する可能性を零に近づけることはできるが、完全に零になることはないだろう。事故が起きてからでは遅い。ただ、もし事故が起きてしまったときに、小さな飛行機に乗っているひとに胸を張れるような生き方をしなくてはならない。僕は、大きな飛行機に乗っているというただそれだけの理由で、小さな飛行機に乗っている人に対して有責なのである。小さな飛行機に乗っている人が、被災者を援助するという誇らしい仕事をしていたことを知ったとき、後悔しないように、それに負けないほど一生懸命に日常を生きなくてはならない。

季山時代
2024.01.02

二〇二四年一月三日

デートの下見デート論

デートの下見論

二〇二四年一月四日。僕は、ある女性に恋をした一人の友人の話を聴いていた。その恋に盲目な友人と、デートの下見をするべきかどうかについて議論しながら、デートの下見というのは想像以上の哲学的な考察を求めるものなど直観したようである。僕が書いた文章を見ると、フッサールやフロイトやラカンの影響が見られる。とりわけ重要なものは、フロイトのナルシシズム論だろう。僕はフロイトに傾倒していた時期がある。また、この文章における現実的という言葉は、ラカンの現実界とは異なるものだろう。僕はこう書いていた。

デカルト的省察

エロス論集

ラカン入門

山地大樹

デートする前がもっとも楽しい

ある恋愛における定式からはじめよう。デートは、デートする前がもっとも楽しいというものである。これは付き合う前がもっとも楽しいこと、と言い換えてみてもよいだろう。経験から得られる定式は一滴の真理を含んでいることが多いから、この定式について丁寧に考えてみるならば、人間的な性の本質を引きずり出すことができるかもしれない。まず、デート直前の心理状態の記述からはじめてみる。私に気になる相手がいるとする。気になる相手のことは何も知らないが、気になる相手がいると意識した時点において、気になる相手がいるという了解のなかに身を置くことになる。気になる相手がいるということは、漠然と意識されるだけの心的事実だが、相手を求めることを含んでいる。私は、相手がデートに来てくれるかという一縷の不安を抱えながら、気になる相手をデートに誘うことにする。運よくデートの約束を取り付けることが出来たならば、断られるかもしれないという不安は安心へと変わるのだが、今度はいかなるデートにするかを展開させるかという別様な不安が生じる。そこで、デートを想像しながら、デートプランを予期することになるだろう。

デートを想像すること

デートを想像すること。デートプランを予期すること。ここにおいて、デートの相手は想像的な他者として心のなかに現われる。想像的な他者の性格として、想像された他者が自分の想像を超えてこないことが挙げられる。フッサールが明らかにしたような仕方において、私はデート相手に感情移入するからである。このようなデートにしたならば、あの子はこう考えるのではないか。このような会話をしたならば、あの子はこう返答するのではないか。このような場所に訪れたなら、あの子はここに行きたくなるのではないか。こうして想像される他者は、みずからの想像力の範疇を決して超えることがない。私は、あの子のなかに私を移し入れながら、あの子の行動を想像することしかできないからである。あの子は私の想像力のなかで飼い慣らされる。想像のなかで訪れる想定外があるとしても、その想定外は、みずからの想像力が想像できる範囲を超えることは決してない。想像上のデートにおいて、本来的な意味における想定外は決して起こり得ない。

デートの想像はナルシシズム的態度である

私は、あの子のなかに私を移し入れてデートを想像する。このとき、想像されたあの子が優しい魅惑に満ちているのは当然である。なぜなら、あの子は自分自身のコピーに過ぎないのだから。想像されたあの子は、あの子の輪郭こそ失わなわれないものの、その輪郭のなかを占拠しているのは私である。要するに、私が想像のなかでデートを展開させているとき、私はあの子の皮をかぶった私とデートしている。想像されたあの子は私の変様体に過ぎず、想定内の未知性を孕むことしかできない。結局のところ、デートを想像することは、私自身を楽しませる仕方を想像すること以外の何者でもないのだから、楽しいことは確定している。デートはデートする前が一番楽しいという恋愛の定式は、ナルシシズム的な観点から考えられるべき事柄なのである。想像的なデートにおいて、世界は自分を中心にしてまわっている。これは、恋に恋している状態と呼ばれるに違いない。

想像的なあの子に会いに行く

私は、想像のなかであの子との関係を身勝手に想像する。あの子とどのお店に行こうか、あの子といつ手を繋ごうか。想像のなかのあの子は従順な操り人形である。私の想像に素直に従いながら、あの子は想像どおりに私の手を握り返したり、想像どおりに私の手を払い退けたりする。結局のところ、デートを想像することは、あの子を思い通りに動かすことに過ぎない。こうしたナルシシズム的な態度は、青春をおくる誰しもが経験するものであり、異常なことでもなんでもない。このナルシシズム的な態度に大転換が起きるのはデートの当日である。何度も入念にデートを想像したあと、私は何度も想像したあの子との待ち合わせ場所に向かう。夢にまで見たあの子が私を待っている。そして、あの子が振り向いて顔が見えたその瞬間、ずっと想像していたデートが現実としてはじまる。このとき、想像上のあの子は、待ち合わせ場所で待っている現実のこの子と重なり合う。ずっと想像していた自分自身のコピーとしての《想像的なあの子》と、いま眼前で佇んでいる他者としての《現実的なこの子》、この二人の遭遇の仕方がデートの分岐点となる。一体なにが起こるのだろうか。

想像的なあの子と現実的なこの子の遭遇

想像的なあの子と現実的なこの子の遭遇。このとき、何度も想像していた想像的なあの子は、いま目の前にいる現実的なこの子のうえに覆いかぶさろうとうする。最初は、目の前にいるこの子が、想像していたあの子のように動くことを期待するからである。しかしながら、現実的なこの子は想像的していたあの子とはまったく別物だということに気が付くだろう。現実的なこの子は、想像どおりに動くことなどあり得ないし、想像とはまったく異なる行動や会話を繰り広げるからである。当然ながら、この子はあの子の皮をかぶった私ではない。この子は汲み尽くせない他者であり、私の想像を遙かに超えてくる。この子が想像どおりに動かないことに気がついた私は、想像的なあの子を放棄せざるを得なくなる。この子を想像どおりに動かそうとすることを諦めて、この子と向き合う必要が出てくる。いつまでも想像力の王国を指揮し続ける王様でいるわけにはいかないから、現実的なこの子を素直に受け容れるしかない。ナルシシズムを放棄して他者と向き合うこと。これが恋愛における正常と呼ばれるプロセスだろう。

想像的なあの子を放棄しない場合

想像的なあの子と現実的なこの子は異なる。だから、想像的なあの子を放棄して、現実的なこの子と合うことが求められる。しかしながら、想像的なあの子と現実的なこの子との差異に気づきながらも、想像的なあの子を放棄しない場合がある。現実的な他者よりも、自分自身が扱いやすい想像的な他者に執着して、ナルシシズム的に生きる場合である。その場合、次の三つの道を選択することになるだろう。第一の道は、この子は想像していたあの子と違いに落胆して、デートを切りあげて解散する道である。この態度は、想像的なあの子を守るために現実のこの子を放棄して、想像のなかに生きる決意をすることである。第二の道は、想像的なあの子を現実的なこの子に無理やり押し付けようとする道である。この態度は、眼前に構えるこの子に対して想像的なあの子を憑依させる試みである。現実的なこの子のなかに、想像的なあの子の影を見ようとするという意味で、現実的なこの子は想像的なあの子を投影する鏡である。第三の道は、現実的なこの子を想像的なあの子に近づけようとする道である。この態度において、現実的なこの子を想像的なあの子に接近させるべく、現実的なこの子の洋服や行動に口出しを続ける。現実的なこの子は、想像的なあの子の欠陥品として扱われる。

第二の道と第三の道は、ベクトルが違うだけで同じような道とも言える。第二の道があの子をこの子に合わせて降格させようとする一方、第三の道はこの子をあの子に合わせて昇格させようとする。だから、これらの道は複合的に現われることがほとんどで、あの子とこの子の中間の妥協点で安定する場合が多い。ただし、第二の道にせよ、第三の道にせよ、現実的なこの子は想像的なあの子の模造品にすぎない。第一の道の場合、想像的なあの子と現実的なこの子の差異を見つけたうえで、想像的なあの子を選ぶ選択だから潔いとも言えるが、現実と関わり合う経路を捨てている点おいて、自分の想像に合わない者との関わりを断つ自閉的なあり方である。ところで、いずれの三つの道をとるにせよ、眼前の現実的なこの子が軽んじられすぎていることが問題である。想像的なあの子を放棄しない場合、想像的なあの子に固執してしまうため、現実的なこの子を生のまま見つめることが困難になる。現実的なこの子と向き合うためには、想像的なあの子を放棄しなくてはならない。それは、想像的なあの子という自分自身を愛するナルシシズム的態度から脱却することを意味している。では、現実的なこの子と向き合うとは何が起こるのだろうか。

現実的なこの子と素直に向き合うこと

眼前のこの子が想像していたあの子ではないと認めること。目の前にいるこの子は、あの子の皮をかぶった私ではなく、それ自体でこの子であると認めること。想像的な他者を放棄して、現実的な他者と素直に向き合うこと。そう決意したならば、私は心苦しい場所に連れ出されるだろう。想像的な場所において、私はあの子を変様させて欲望を充足していたが、想像的な場所を諦めたならば、私は現実的なこの子に見合うように私自身を変様させなくてはならないからである。現実的なこの子は、私が操作できる道具などではないし、私を移し入れても決して汲み尽くせない未知なる存在である。だから、私は現実的なこの子の求めている人物像を想像して、その人物像にみずからを接近させるべく努力する。これを片想い、あるいは恋をしている状態と呼ぶのだろう。私はあの子のために変様し続けなくてはならず、そのために私を捨てなくてはならない。現実的なデートにおいて、世界はこの子を中心にしてまわっている。

永遠に生きられるだろうか、この子のために

想像的なデートにおいて、世界は自分を中心にしてまわっているが、現実的なデートにおいて、世界はこの子を中心にしてまわっている。前者は恋に恋している状態であり、後者は恋をしている状態である。恋に恋している状態において、全生命の力点は自分に置かれているため、自分の言うことを聞かないこの子は死んでもよいと思えるが、恋をしている状態において、全生命の力点はこの子に置かれているため、自分の存在価値はこの子に委ねられていて、もしこの子が死ぬことを望むなら、私は死んでもいいと思える。人間が恋をする力は生死すら超越するのである。そうだとはいえ、現実的なデートは長く続くことはない。この子のために、みずからを変様させ続けることには限界がある。結局のところ、現実的なこの子の理想像を演じ続けることなどできない。そもそも、この子の理想像など本当にあるのかすら分からないのだから。そこで、その先の段階へ進まなくてはならない。

象徴的な解決

デートを二段階にわたって記述してきた。想像的な場所、そして現実的な場所である。そして最後に訪れるのが象徴的な場所である。象徴的な場所は、お付き合いすることを考えると分かりやすい。自分のコピーとしてのあの子を選ぶか、自分の目の前にいるこの子を選ぶか、こうした二項対立的にせめぎあう不安定な世界に対して、言語を介した象徴的な解決が与えられる。あの子かこの子か、自分か他者か、こうした残酷で不安定な二項対立に対して、彼氏と彼女というレッテルを貼ることによって、どちらも等しく大事であることが保証される。言語という法を介して、互いが互いに尊重しあう関係が確認されて、調停の手続きの結果、自分と他者がお互いを支え合うことが可能になる。これを愛と呼ぶ。世界は、自分と相手という二つを中心にしてまわるのである。したがって、象徴的な場所の愛のイメージは楕円形となるだろう。象徴的なデートは、恋をしているときのドキドキ感はないが、居心地のよい安心感がある。

想像的な場所への退行

象徴的な場所における解決が得られない場合、たとえば付き合うことができない場合、ずっと現実的な場所に居続けることは困難なために、やっぱり想像的のあの子がよかったと、居心地のよい想像的な場所へと退行することもある。この場合、想い出に浸りながら回想のなかを生きることになるだろう。退行された想像的な場所は、居心地のよい場所なのだろうが、他者との関わり合いを欠いた引きこもり的なものになる。これは、想像的な場所に再び訪れるという点において二次的ナルシシズムとでも呼ぶのがよいかもしれない。さて、ここまでデートを三つの段階で記述してきた。想像的な場所、現実的な場所、象徴的な場所である。この三つの段階は、私の世界、他者の世界、二人の世界と言い換えてもよいし、恋に恋するということ、恋するということ、愛するということと言い換えてもよいだろう。最終的に、デートは象徴的な解決を与えられ、世界は安定するのである。

象徴的な場所の問題点

とはいえ、象徴的な解決に問題はないのだろうか。それは安定しすぎていないだろうか。二人の世界の根拠を、言語に委託しすぎていないだろうか。法を保証する大文字の他者を信頼しすぎていないだろうか。二人は、彼氏と彼女という記号として扱われていないだろうか。象徴的な場所は安定しているものの、想像的な場所であの子を好き勝手動かすような自分勝手な側面や、現実的な場所でこの子を見つめていたような情熱的な側面、そうした人間らしいものが失われていないだろうか。これは、本当の意味で二人がお互いを見つめあっていると言えるのだろうか。こう問いかけて見ると、象徴的な場所は、想像的な場所と現実的な場所を排除することで成立してくるように思えてくる。もし、彼氏と彼女の象徴的な場所において、どちらかが自分勝手に振る舞う想像的な場所が浮上したり、どちらかが一方的に依存するような現実的な場所が浮上したならば、別れが訪れることになるだろう。もし象徴的な場所の安定感を手放さないままに、想像的な場所や現実的な場所を取り入れることができるならば、もしそんなデートを考えることができるならば、二人はずっと愛し合えるに違いない。そこで、一つのデートのあり方を提案したい。デートの下見デート、これである。

デートの下見デート論

ここまではデートを分析することに終始していたが、こうした分析を踏まえて新しいデートを提案してみたい。ただ、ここからは単なる思考実験に過ぎないことを断っておく。私が提案するのは、デートの下見デートというものである。デートの下見デートとは、デートそのものではなく、その先にあるデートを見据えたデートである。この不思議なデートによって、言語に主導権を奪われた象徴的な場所のなかに、想像的な場所と現実的な場所を繰り込むことを考えてみたい。まず、気になる相手をデートの下見としてデートに誘う。口実はなんでもよいが、デートしたいが、どこに行くべきか分からないから一緒に下見して欲しいとでもしておけばよい。もし相手に好意があれば来てくれるに違いない。

下見デートにおいて、来るべきデートに向けての準備的なデートであることを互いが承知しているから、私は想像的なあの子を放棄することなく、現実的なこの子と向き合うことができる。現実的なこの子は、私が想像的なあの子を手放していないことを周知のうえでデートに参戦するのだから、想像的なあの子を押し付けられても、ある程度は演じてくれるに違いない。デートそのものが想像的な場所として実現されるのである。だからといって、私は想像的なあの子に固執するわけではない。デートの中途、現実的なこの子に対して「こうしたらあの子は喜んでくれるかな?」とたずねるからである。このとき、想像的なあの子を題材としながら、現実的なこの子との対話が行われるのであり、他者に向き合う現実的な場所の側面が失われることはない。こうして、想像的なあの子と現実的なこの子が無理なく調和してゆく。想像的なあの子と現実的なこの子は徐々に溶解するのであり、どちらの像も放棄する必要がなく融合する。

そしてデートの下見デート最後、私はこう述べる。「この下見デートは、あなたとのデートの下見だったんです。来週、本番デートをしてくれますか?」と。もし相手が本番デートに来てくれるようであれば、象徴的な場所が成立するだろう。こうして実現した象徴的な場所は、想像的な場所と現実的な場所を含みこんでいるから、本当の愛のかたちになると直観している。デートの下見デート、私が理想とするデートは以上のものである。あまりに独我的で批判が殺到するだろうから、申し訳程度に以下の文言を付けておく。ただし、両想いに限る。私は、フロイトやラカンの理論を参考にしながら以上のデート論を空想してみたのが、精神分析を無理に父や母の三角形に還元することをしなくとも、日常のデート程度の生活世界の恋愛論を、彼らの精神分析の理論を使って考えてみるのは楽しい遊びである。こうした遊びも許されてよいだろう。

季山時代
2024.01.03

二〇二四年一月四日

真実とナイフ

ナイフで指を切る

二〇二四年一月四日。僕は届いた段ボールを開けようとして、カッターナイフて指を切っていた。小さな傷なのだが、絆創膏の白い部分に血が滲んでくるから、絆創膏を何度か取り替える必要があった。この出来事をつうじて、カッターナイフが何かを切り裂きたがっているような印象を受けたのだろう。ちなみに、不意に頭のなかに浮かんだのは、僕が真実を口にすると、ほとんど世界を凍らせるだろうという妄想によって、ぼくは廃人であるそうだという詩人の歌と、「そしてナイフを持って立ってた」と叫び続ける、あるロックバンドのメロディーである。僕はこう書いていた。

共同幻想論

山地大樹

真実とナイフ

真実はナイフである。ナイフは真実でないものを鋭く切り裂くだろう。当然、そんな出来事は世界中の誰一人として望んでいない。誰も何かを切り付けたくないし、誰も何かを切り付けられたくない。それでも、ナイフは確実にある。ナイフはこの手のなかに握られている。手のなかのナイフは暴れていて、何かを切り裂こうとしている。またあの声が聴こえてくる。

なにも傷つけたくない

だれも傷つけたくない

ナイフを何度も手放そうとする。山に埋めて、海に沈めて、それでもナイフは帰ってくる。地面を切り裂いて、水面を切り裂いて、この手のなかに戻ってくる。この手が故郷だとでもいうように。仕方がないから、ナイフをみずからの心臓に向けるしかない。手のなかのナイフは暴れていて、何かを切り裂こうとしているのだから。すると、またあの声が聴こえてくる。この心臓は誰かの何かであるから、切り付けることは許されないとでも言いたいのだろうか。

季山時代
2024.01.05

二〇二四年一月五日

ナンとカレーの身体論

ナンを食べる

二〇二四年一月五日。僕は、昼ごはんとしてナンを食べようとしていた。ナンにカレーをつけて食べようと考えていたのだが、抽斗のなかにあるはずのカレーが見あたらないことに、ナンをオーブンに入れてから気がついたから、ナンだけを食べることになったらしい。僕は、マラルメにおける不在の花を意識しているのだろう。また、ヴァレリーの身体論を読んでいたことも付け加えおこう。僕はこう書いていた。

ヴァレリー 芸術と身体の哲学

山地大樹

カレー不在のナン

ナンを食べた。なんだかカレーになった気がした。

ナンを食べていると、この一文が突如として頭のなかに浮上した。自宅のテーブルに向かって座り、ナンにたっぷりのバターを塗って食べていたのだが、明らかにカレーの香りが立ちのぼってきたときに書かれた一文である。ここで重要なのは、僕はナンだけを食べていたということである。小腹を満たそうとしただけだから、とりたててカレーはつくらなかった。確認するならば、周囲にカレー屋があるわけでもなく、隣の家がカレーをつくっていた痕跡もない。にもかかわらず、カレーの匂いが立ちのぼってきたのである。カレーを伴わないナン、いわばカレー不在のナンから豊潤なカレーな匂いが立ちのぼり、鼻をくすぐるのはなぜだろうか。

ナンとカレーの記号学

ナンといえばカレーというイメージが定着しているが、インドに訪れたときのことを想い出すと、カレー王国の住人はナンとカレーを一緒に食していなかった。調べてみると、精製された小麦粉でつくられるナンは贅沢な宮廷料理であり、庶民は全粒粉でつくられたチャパティを主食としているらしい。すなわち、カレーとナンという記号の組み合わせは、インド固有のものではなく、日本という辺境国でつくられたものである。ここから見出されるべき可能性は二つである。第一の可能性は、ナンとカレーの記号の癒着は必然ではなく恣意的なものだということ。チャパティとカレーの組み合わせでもよいし、ライスとカレーの組みあわせも可能であるし、もっといえば、未知なるものとカレーの組み合わせも考えることができる。そうした幾つもの可能性のなかから、一つか二つ程度の組み合わせが日常に定着する。膨大な潜在的な可能性のなかから日常に定着するものは限られている。

第二の可能性は、記号の改編は、食事の伝統を無視できる辺境国において発生しうること。インドにおいて、ナンは高価なものだという伝統が根づいていたことが正しいならば、ナンとカレーをともに食することが日常として定着することは考えられない。なぜなら、記号を日常に定着させる役割を分担しているのは大多数の庶民であり、贅沢品を食べるひとはいつも庶民より少ないからである。庶民が日常のなかで食べるものが記号として定着するのであり、その逆はあり得ないだろう。要するに、ナンとカレーの記号の癒着は、ナンが高価なものだという伝統が根づいているインドでは起こり得ないものであり、辺境国に輸入されてはじめて生じるということである。なるほど、フランスパンはもともと高価なものであったのだが、ベトナムにおいてバインミーとして定着したのも同型かもしれないし、もっといえば、ビーフシチューが肉じゃがの関係、寿司とカルフォルニアロールの関係などにも敷衍できるかもしれない。大胆に推測すれば、贅沢品ゆえに原産国で定着していない記号の組み合わせは、辺境国において庶民のものとして飼い慣らされて、記号として定着するのではないだろうか。

ナンとカレーの補色の関係

話が脱線してしまったが、ナンとカレーという記号の癒着が日本において定着しているということを言いたかっただけである。とりわけ、日本の伝統的な主食はライスであるから、ライスは伝統的に様々な記号と結びついているが、ナンは単に輸入されただけのものだから、カレー以外の記号と結びついていない。また、インドカレー屋がナンを提供するという商業文化も後押しして、ナンとカレーの記号の結びつきは強固になる。こうした事情からナンといえばカレーというイメージが定着したのだろう。ところで、ナンを食べたときにカレーの香りが立のぼるという現象は、補色の関係に類似している。赤色を見たとき、網膜が潜在的に緑色をつくり出しているように、ナンを食べたとき、身体は潜在的にカレーをつくり出している。もしそうならば、ナンとカレーは記号的に結びついているというばかりではなく、身体がナンという出来事との遭遇することによって、身体のなかに潜在的にカレーがつくり出されている。ナンを食べているときに感じた豊潤なカレーの匂いは、身体のなかにつくり出された潜在的なカレーの匂いで間違いない。

身体の五感とカレー

カレー不在のナンを食べているとき、身体のなかに潜在的なカレーがつくられる。重要なことは、潜在的なカレーは味覚として現われるのではなく、聴覚として現れていることである。カレー不在のナンを食べているとき、口のなかはナンの味に占拠されているから、カレーの味が現象することはない。味覚はいつも、ある何ものかについての味覚であり、今回の場合は口に含まれたナンについての味覚である。視覚も眼前のナンをめざしているし、感触も手のなかのナンをめざしている。残るは聴覚と嗅覚であり、潜在的なカレーが身体に侵入する余地があるのは聴覚と嗅覚である。カレーに音はないから、潜在的なカレーは嗅覚として訴えかけてくる。幻嗅だろうか? いや、むしろこう考えるべきかもしれない。ナンとカレーの記号を結びつけるために嗅覚が用いられている、と。記号と記号の隙間には、身体性が入りこんでいる? 目と鼻の先の記号? もう少し考えなくてはならない。

季山時代
2024.01.05