Archive Walker

疑いのはじまり 探偵をはじめます他

日々の記録

依頼者様へ。お世話になっております。二〇二三年度、八月零日から八月七日までの調査報告になります。ご参考いただければと存じます。今後ともよろしくお願い申し上げます。

二〇二三年八月零日

探偵をはじめます

調査内容

僕、今日から探偵になります。依頼者は僕、そして捜査の対象も僕自身です。探偵事務所を設立したのは、僕自身を怪しいと感じていた僕が、僕自身の調査を僕に依頼したことを発端としています。僕は僕自身を信じることができません。直観ですが、僕自身は明らかに怪しい人物です。もう既に悪行を働いているか、はたまた、これから悪行を働くに違いありません。ただ、僕自身の怪しさを証明する証拠が現時点で一つもないことが問題です。だから僕自身の情報を収集して、その結果を僕に報告する必要があります。調査方法としては、僕が僕自身の日々を書き記すことからはじめるしかないでしょう。僕は僕自身を捜査するために、僕自身の想起を書き記したものを報告することにします。一行でも構わないから何かしらの想起を残して、それを取りまとめて報告することにします。報告するのは、僕自身の事実ではなく僕自身の想起であり、僕自身の想起は事実よりも事実に近いものであることを信頼したいと思います。探偵の調査報告は、夢の報告と同じく過去形になる点を忘れないでください。

調査方法・付記

僕は本をよく読むひとだから、読んだ本の内容が想起に反映されている場合があまりに多いことが判明しました。そこで調査報告の際に、主に本の表紙の画像資料の添付することにいたしました。画像資料の詳細を解説するには紙面がたりませんから、ご自身でご確認いただければ幸いです。

山地大樹

再創造される虚無

八月零日、僕は生きることを辞めた。僕は、虚無として再創造されなくてはならない。

季山時代
2023.08.00

二〇二三年八月一日

透明なビー玉をください

道路の亡霊

二〇二三年八月一日。僕は透明なビー玉を異常なほど欲しがり、街中を歩きまわっていた。興味深いのは、透明なビー玉が道路に落ちているはずだ、と僕が確信していることにある。僕は、室内を探すことは決してなく、灰色の道路のうえばかりを探しまわる亡霊のようであった。アスファルトの道路という地と、美しい透明なビー玉という図の対比が、僕にとって重要な意味を持つのだろう。腐った太陽よりも、ざらざらした現実よりも、ビー玉のイデアの捕虜として生きることの決意だろうか。僕はこう書いていた。

山地大樹

小さな太陽

綺麗な言葉に混じっている小さな汚れが気になって、綺麗な言葉をありのままに飲みこめないのが悲しい。不純さが喉に引っかかって、どうしても吐き出してしまうのが苦しい。透明なビー玉を僕にください、透明で綺麗なビー玉を僕にください。汚らわしさの欠片もないような、美しく純粋なビー玉を、この手のなかで抱きしめることが出来るなら、それが僕の生きる理由になります。小さく輝く太陽は、醜さのすべてを払いのけて、僕を世界から守ってくれるに違いありません。透明なビー玉をください、透明で綺麗なビー玉をください。

季山時代
2023.08.01

二〇二三年八月二日

その膨らみが怖くて仕方ない

未知なる人の権力

二〇二三年八月二日。僕は前日の夜、友人とお酒を飲んで楽しい気分になり、多数の人に連絡を取ろうと試みていた。お酒を飲むと誰かと話をしたくなるのが僕の習性らしい。そして当日の朝、僕は目覚めると同時に深い罪悪感に溺れているように見えた。僕は、僕の奥底に潜む未知なる人が、想像以上の権力を持つことに怯えていたのだろう。また、左記の文章には、木村敏の親密な未知性という言葉が影響しているように見える。僕はこう書いていた。

分裂病と他者

山地大樹

未知なる親密な人の憑依

自分の奥底に未知なる人がいる、というのは誰もが感じている事実だろう。その未知なる人は、未知なる無気味な人ではなくて、未知なる親密な人である。奥底で息を潜める未知なる人と、僕は折り合いをつけて共存しているから、未知なる人に恐れを感じることはない。酒を飲んだとき、夢を見たとき、疲弊したとき、その未知なる人は勢力を増して僕に憑依する。憑依の状態になると、僕は僕を失ってしまうし、憑依が覚めた後に反省することも数多くある。それでも、憑依そのものは怖くない。事後処理が面倒なだけで、憑依そのものは決して怖くないのである。憑依は未知なる親密な人が溢れ出すことであり、むしろ、普段から表舞台に立つことができない未知なる人に人権を与える喜びすらある。

愛撫が膨らむとき

ただ、未知なる人との関係のなかで、本当に怖いことが一つある。未知なる人が僕に憑依したとき、空洞でしかない意識を失っている僕が、未知なる人の行為を膨張させているように感じることである。憑依が覚めたとき、未知なる人だけでは為せないはずのことを、未知なる人が為していることに気が付く。多分、僕が未知なる人の行為を助長しているのだろう、それも無意識のうちに。たとえば、未知なる人が歩行しようと考えたとき、空洞の僕がエネルギーを未知なる人に貸し出した結果、歩行が大きく膨らんで、未知なる人は走り出してしまう。この膨らみが怖くて仕方ない。もし未知なる人が大切な人を愛撫しようとしたとき、愛撫が大きく膨らんで、大切な人を壊してしまうならば、僕は、僕と未知なる人の両方を許すことができなくなる。この膨らみを制御できる気がしない。

季山時代

共犯者としての空洞

未知なる人の行為が膨らむこと、この帰結が悲惨なものになるならば、空洞な僕は共犯者です。この空虚な罪を償うために、何ができるというのでしょうか。

季山時代
2023.08.02

二〇二三年八月三日

夢のなかのなか、世界の奥の奥

彼岸の彼岸

二〇二三年八月三日。憂鬱そうな僕は、寝台のうえで寝たり起きたりを繰り返していた。寝ては起きて、起きては寝て、その反復のなかで、苦悩に満ちた表情を浮かべたり、恍惚とした表情を浮かべていたりした。僕は、目覚めと眠りの向こう側にある不思議な場所にたどり着いていたようだ。その場所は、シュルレアリスムの夢と関係あるのだろうか。僕はこう書いていた。

シュルレアリスム宣言・溶ける魚

山地大樹

他の何処よりも罪深い場所

ある朝、眠りについた私は、その眠りのなかで再び眠りについていた。夢のなかの夢のなか、世界の奥の奥。この二重化された中性的な場所で、私は溶解しながら死に向かって疾走していた。陸のなかで溺れる魚のように、世界のなかで溺れる魚であった。死に向かう私は、透明な踊り子だった。そして、死に接近してゆく私の右手が死に触れて、その途端、何かが変わり始めるのを感じた。世界が煌めき出して、あらゆるものが生き生きと輝きに満ち始めた。なんと鮮やかで豊潤な世界。しかしながら、この夢のなかの夢は長くは続かない。なぜなら、この場所は他の何処よりも罪深い場所だからである。この綺麗な場所に居続けたいが、ここに居てはならないと顔も知らない誰かが呼びかけ続けるから、この場所に居続ける罪悪感を拭い去ることなど到底できない。私は目覚めなければならない。心地よい倦怠を感じながら、私は目覚め、その目覚めのなかで再び目覚めた。あの場所を忘れることはない。

季山時代
2023.08.03

二〇二三年八月四日

ロックとは生命の受け渡しである

テレパシー

二〇二三年八月四日。僕は久しく会っていなかった友人に会いに行き、その帰り道で深く思い悩んでいるようだった。家に帰っても、枕のうえで何かを悩み続けているのが見てとれた。無線のイアホンで音楽を聴きながら、何かを考え続けていた僕は、生命の神秘について、あるいはテレパシーの原理について考えていたらしい。というのは、フロイトがテレパシーを信奉していたことを知ったばかりだったのだから。僕はこう書いていた。

フロイト、夢について語る

山地大樹

白塗りバンド

夜、友人と夜の古着屋を散歩していると、外国のロックバンドの古びたTシャツを見つけた。黒を基調としたTシャツの表面には白塗りの顔が四つ並んでいて、こちらの様子を無邪気に眺めていたが、その四つの顔は東京の街を表徴しているようであった。友人は洋服を手に取ると、自分の身体に合わせながら「ロックがなければ死んでいた」と静かに告げた。僕は、友人の言葉の意味を理解することが出来ず、動くのを辞めていた。しばらくして、その反対の言葉が頭に浮かんできた。「ロックがあるから死にたくなる」、と。

持つこと、成ること

友人と僕、二人の埋められない差異が頭から離れないから、差異を差異のまま家に持ち帰って、風呂場で、寝台で、その差異について考え続けた結果、その差異は二人の立場の違いによるものだという結論にたどり着いた。ロックを消費する友人の立場とロックを生産する僕の立場、言い換えるならば、ロックを持とうとする立場とロックに成ろう立場の違いである。前者は自分自身がロックを謳うことを諦念した人であり、後者は自分自身がロックを謳うことを信じる人である。

僕たちは世界を変えることができるか

僕はというと、自分自身がロックを謳うことができると信じているから、ロックを謳う人と同じ立場に身を置くことを欲しているから、その理想と現実のずれで死にたくなっている。当然ながら、どちらの立場が優れているというわけではないし、どちらが正しいというわけではない。ただ、ロックがなければ死んでいた人とロックがあるから死にたくなる人のあいだには、埋めることができない鋭い裂け目があることは確からしい。そして、両者のあいだの断絶を前提とするならば、一つの仮説が浮かび上がる。それは、ロックとは生命の受け渡しではないかという仮説である。

死の切削

ロックがあるから死にたくなる人が、ロックがなければ死んでいた人に生命を受け渡しているのではないか。この仮説は大胆な思弁に過ぎないが、ロックを謳う人には必ず死の匂いが付き纏っていることは否定できない。ロックを謳う人が生命をすり減らせばすり減らすほど、ロックを聴く人にはより多くの生命が受け渡されているように思えてならない。僕は、どれだけ死にたくなれるだろうか。僕は、どれだけ生命を削れるだろうか。そして僕は、どれだけの生命を人に受け渡すことができるのだろうか。大人になりきれない僕は、いつまでも悩み続けるのだろう。

季山時代

生命の贈与

ロックとは生命の受け渡しである。

季山時代
2023.08.04

二〇二三年八月五日

美しい花火を背にして人混みを歩く

花見大会

二〇二三年八月五日。僕は、花火大会へと向かっていた。美しく散りゆく花火を背にしながら、会場に向かって人混みのなかを歩く僕は、憂鬱の波に押し潰されそうに見えた。僕はこう書いていた。

花火の群れ

歩いて死んで、歩いて死んで、歩いて死んで、そんな日常が永遠に続いてゆく。それは、花火の群れのように美しい。

季山時代
2023.08.05

二〇二三年八月六日

みんなが花火ばかりを求めるから戦争が起きるのではないか

花火大会と火事

二〇二三年八月六日。僕は、昨日の花火大会に関するニュースを悲しそうに眺めていた。花火が河川敷の枯草に燃え移り、河川敷が炎に包まれるニュースである。その直後には、ウクライナで続いている戦争のニュースが報道されていたから、僕は花火と戦争を結びつけたようである。僕はこう書いていた。

フロイト、夢について語る

山地大樹

花火と爆弾

みんなが爆弾なんかつくらないできれいな花火ばかりをつくっていたらきっと戦争なんか起きなかったんだな、という有名な画家の言葉があるが、みんなが花火ばかりを求めるから戦争が起きるのではないか、と僕は考える。花火は美しい。花火が美しいからこそ、花火を取り合って戦争が起きるのではないか。なんて悲しいことだろう。だからといって花火をやめてはならない。美しいものなくしては、人は人でなくなるだろうから。考えなくてはならないのは、戦争を起こさないための花火を実現する方法である。

花火と戦争

考えてみると、戦争を引き起こす原因は花火そのものではなく、花火大会だということに気が付く。花火は美しいが、花火大会は醜い。なぜ、儚く散りゆく花火を何度も打ちあげ続けるのだろうか。花火は一度きりで散りゆくから美しいはずなのに。だから、豪華な花火大会など業火に焼かれてしまえばよい。花火大会は河川敷を炎で包んで、人々を戦争させるばかりではないか。戦争を起こさないための花火を打ち上げる僕の代案はこうである。毎日、一度だけ最高に美しい花火を打ち上げること、これである。

一輪の花火を愛したい

花火大会にしなくてよい。何発も打ち上げなくても良い。そのような形式化に歯向かうことが、花火の美しさの秘密だったはずだ。五時の鐘がなるように、一日の終わり、美しい花火を一つだけ打ちあげればよい。何万発ものの花火を打ち上げて競い合うのは、それこそ戦争である。一日の終わりに一つの美しい花火を打ち上げること。僕はそれで満足するし、満足でありたいと強く願う。日常のなかに咲く一輪の花火を愛せる人でいたい。一輪の花火をみんなが愛するとき、戦争はなくなるかもしれない。

季山時代
2023.08.06

二〇二三年八月七日

動かないトロッコ

デスクと憂鬱

二〇二三年八月七日。僕は、ほとんど動くことはなくデスクに座り続けていた。動くことのない僕に対して、僕の頭は動き続けていたようである。僕はこう書いていた。

山地大樹

静止するトロッコ

トロッコに乗っている。決して止まることのない容器に身を委ねて、周りの風景が流れてゆくのを感じている。トロッコに乗って周りの風景を見ている僕は、実はトロッコに乗っていないのではないだろうか?

季山時代
2023.08.07

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