みんなが花火ばかりを求めるから戦争が起きるのではないか
みんなが花火ばかりを求めるから戦争が起きるのではないか
花火大会と火事
二〇二三年八月六日。僕は、昨日の花火大会に関するニュースを悲しそうに眺めていた。花火が河川敷の枯草に燃え移り、河川敷が炎に包まれるニュースである。その直後には、ウクライナで続いている戦争のニュースが報道されていたから、僕は花火と戦争を結びつけたようである。僕はこう書いていた。
山地大樹
花火と爆弾
みんなが爆弾なんかつくらないできれいな花火ばかりをつくっていたらきっと戦争なんか起きなかったんだな、という有名な画家の言葉があるが、みんなが花火ばかりを求めるから戦争が起きるのではないか、と僕は考える。花火は美しい。花火が美しいからこそ、花火を取り合って戦争が起きるのではないか。なんて悲しいことだろう。だからといって花火をやめてはならない。美しいものなくしては、人は人でなくなるだろうから。考えなくてはならないのは、戦争を起こさないための花火を実現する方法である。
花火と戦争
考えてみると、戦争を引き起こす原因は花火そのものではなく、花火大会だということに気が付く。花火は美しいが、花火大会は醜い。なぜ、儚く散りゆく花火を何度も打ちあげ続けるのだろうか。花火は一度きりで散りゆくから美しいはずなのに。だから、豪華な花火大会など業火に焼かれてしまえばよい。花火大会は河川敷を炎で包んで、人々を戦争させるばかりではないか。戦争を起こさないための花火を打ち上げる僕の代案はこうである。毎日、一度だけ最高に美しい花火を打ち上げること、これである。
一輪の花火を愛したい
花火大会にしなくてよい。何発も打ち上げなくても良い。そのような形式化に歯向かうことが、花火の美しさの秘密だったはずだ。五時の鐘がなるように、一日の終わり、美しい花火を一つだけ打ちあげればよい。何万発ものの花火を打ち上げて競い合うのは、それこそ戦争である。一日の終わりに一つの美しい花火を打ち上げること。僕はそれで満足するし、満足でありたいと強く願う。日常のなかに咲く一輪の花火を愛せる人でいたい。一輪の花火をみんなが愛するとき、戦争はなくなるかもしれない。
季山時代
2023.08.06
