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卵が先か、鶏が先か 川端康成の『みずうみ』の感想など他

日々の記録

依頼者様へ。お世話になっております。二〇二四年度、一月十日から一月十四日までの調査報告になります。ご参考いただければと存じます。今後ともよろしくお願い申し上げます。

二〇二四年一月十日

夜王子と昼天使

夜と昼の現象学

二〇二四年一月十日。僕は明後日の哲学を考えて以来、夜と昼という曖昧な存在に気を奪われていた。手元のメモ書きには「昼と夜は、睡眠という確固たる断絶から生じた曖昧な領域ではないか」と書かれていた。多分、昼と夜というのを睡眠前と睡眠後という風に考えるのではなく、騒がしい場所と静かな場所くらいに考えているのだろう。僕はこう書いていた。

人間と空間

星の王子様

山地大樹

夜王子と昼天使

僕は夜王子、昼になると蒸発してしまうんだ。

君は、昼が来ることに怯えているの? 太陽が怖いの?

怯えるだって? 僕は昼を見たことがないんだ。だから、どんな昼にどんな世界が広がっているのかを知らない。夜には、月と星が輝いているけど、昼には、人間と草花が、色という不思議な言語で会話していると聴いているよ。太陽が光を浴びせるなんて、さぞ鮮やかな世界が広がっているんだろうな。僕は、太陽の端っこが地面から顔をのぞかせた途端、あっという間に蒸発してしまうんだ。太陽が怖いわけではないよ。むしろ、太陽がある世界が羨ましいんだ。昼の世界に行ってみたいなあ。

昼の世界では、人間と草花は喧嘩ばかりしているの。君が思っているより平和な世界ではないのかもしれないわ。

そうなんだ、悲しいね。夜の世界では、沈黙のなか、皆が昼の世界を期待して震えているというのに。そんな風に聞くと、昼か来ることが怖くなってきた。太陽が訪れるのが怖い。ねえ、昼の世界の喧嘩のことは、ここだけの秘密にしてくれないか。夜の世界の住人たちは、みんな昼の世界が大好きなんだ。こんな思いをするのは僕だけでいい。

うん、わかったわ。ねえ、夜王子さん。私、夜の世界が大好きよ。昼の世界にはないものがたくさんあるもの。月と星が輝くなか、静寂と沈黙を感じられるのは夜の世界だけの特権ね。みんな、健気に眠りについているけれど。

ありがとう。僕も夜の世界が大好きなんだ。そして、少しのあいだだけど、君のことも大好きになったよ。ねえ、昼天使さん。僕はもうすぐ蒸発してしまうけど、君のこと想って生きることにするよ。昼の世界は信頼できないけど、君のことだけは信頼できるような気がしているんだ。

ありがとう。私も君のことが大好きよ。たとえ君が蒸発しても、君のことを忘れないから。

季山時代
2024.01.10

二〇二四年一月十一日

卵が先か、鶏が先か

卵が先か、ご飯が先か

二〇二四年一月十一日。僕は、チャーハンをつくるなかで、ご飯を先に入れるか、卵を先に入れるのかが不意に分からなくなって困惑していた。いつも通りなら卵を先に入れるのだが、その選択は決定事項などではないから、卵を先に入れても、ご飯を先に入れても許されるはずである。卵を先に入れるか、ご飯を先に入れるか、これは僕にとって自由に扱える権利ではないか。こう考えているとき、卵が先か、鶏が先かという問いが浮上して、これについて書きたいと思った。僕は、習慣に逆らってご飯を先に入れたが、いつもより美味しくなかった。なるほど、因果関係にはそれなりの理由があるのかもしれない。さて、僕が書く文章で見落とされているのは、二人目の子供をどう捉えるかという問題である。二人目の子供を産むとき、母親が子供を産むという事象が現実に生じるだろう。これに対しては、解剖学的な母親と、社会的な母親は異なるという見解でよいのだろうか? もしそうだとすると、社会的な母親という記号としての性格が二人目の子供の性格に影響を与えることをあり得ないだろうか? これらの問いは、棚に上げておこう。僕はこう書いていた。

山地大樹

卵が先か、鶏が先かの結論

卵が先か、鶏が先か。もし卵が先ならば、その卵を産んだ親の鶏がいることになる。もし鶏が先ならば、その鶏が成長した卵が先にあることになる。したがって、卵が先か、鶏が先かは解けないことになる。進化論からは、卵が先であるという一応の結論が打ち出されているようだが、ここで問題にしなければならないのは、何故そんな問いが成立するのかである。こう問いかけることによって、このパラドックスは言語の問題へと漂着することになるだろう。徐々に明らかにしたいと考えているが、結論を先に述べておく。卵と鶏は同時に誕生した、これである。

子供が先か、母親が先か

卵が先か、鶏が先か。この問題に光を投げかけるべく、人間に置き換えて考えてみることにしよう。子供が先か、母親が先か。もし母親が先ならば、その母親の子供時代が先にあることになり、もし子供が先ならば、その子供を産んだ母親がいることになる。ここでパラドックスが起きているように見えるが、立ち止まって冷静に考えるならば、母親の誕生の瞬間が見落とされていることに気がつくだろう。母親が子供を産むという前提そのものが錯覚だからである。解剖学的な意味に限定して考えるならば、子供を産んでいない女性を母親と呼ぶことはできない。そうではなくて、一人の女性が子供を産んだときにはじめて母親になる。すなわち、母親という名前は子供が産まれたときに初めて与えられるものであり、子供の誕生と同時に生じているのである。したがって、母親が子供を産むことはなく、母親と子供は同時に誕生する。

子供と母親は同時に誕生した

子供と母親に置き換えることで得られるのは、母親と子供が同時に誕生するということである。一般に、母親が子供を産むという表現をする場合、言語の世界に足を踏み入れてしまっている。母親が子供を産むという表現における母親は、現実界の人間を意味するものではなく、象徴界の人間を意味している。現実において、母親が子供を産むことは決して起き得ず、子供が産まれる瞬間に母親が成立しているからである。子供が先か、母親が先か。この問いにおける母親は、ある一人の生身の人間ではなくて、母親と呼ばれることで浮上する仮称としての人間であり、母親は言語によって記号化されている。ただし、記号としての母親という空虚なものが腑に落ちることはなく、空虚な記号はそのままに放置されることはなく、イメージによって補完される。そこで、記号としての母親に対して、現実としての生身の母親のイメージが重ね合わされ、母親が実体化される。記号は肉付けされるということである。こうして、母親が子供を産むということが現実では起き得ないにもかかわらず、現実に起きたように感じられるという錯覚が生じて、パラドックスが生じる。

卵も鶏のパラドックスの原因

子供と母親の錯覚を暴くことで、人間は言語の世界を介すことなく、物事を考えられないことが明らかになった。さて、卵と鶏の問題に戻らなくてはならない。卵と鶏の問題において問われているのは、起源への問いである。遥か遠い過去において、卵から鶏が生まれる瞬間が先だったのか、はたまた鶏が卵から生まれる瞬間が先だったのかが問われている。ここで重要なのは、人間が起源を問うさいに、言語の世界を介さずに考えることが不可能だということである。起源という遥か遠い過去は現実ではないから、結局のところ言語で掴まえることしかできず、その瞬間は記号によってしか捉えられない。起源を問うたとき、卵が先か、鶏が先かという言語を介した問いが成立している。この問いにおいて、卵は現実の卵ではなく、鶏は現実の鶏ではなく、両者とも言語による記号以外のなにものでもない。それにもかかわらず、その空虚な記号としての卵と鶏に対して、現実の生身の卵と鳥のイメージが重ね合わされて、両者が実体化された結果、現実としての卵と鶏があるかのように考えてしまう。こうして卵と鳥のパラドックスが生じる。

卵と鳥は同時に誕生した

したがって、卵が先か、鶏が先かという起源への問いを問うた瞬間に、卵と鶏の両者が同時に誕生すると考えてよい。問いかけによって、卵と鶏は言語を介した記号として成立して、イメージを割り当てられて実体化される。この時点において、卵と鶏はまったく無関係のものとして浮上する。しかしながら、その無関係の卵と鶏に対して因果関係が押しつけられる。その因果関係を押し付けるのが、問いにおける「先か」という箇所である。この先かという言葉の効果によって、卵を考える際に先にある鶏が、鶏を考える際に先にある卵が、仄めかされる。仄かしは、雪だるま式に延長されて、この問いから新たな時空間が成立する。それは、人間が生きている現実の時間かのように振る舞っているが、その正体は、記号によって成立した空虚な時間にすぎない。こうしてパラドックスは解けなくなる。だから、このパラドックスの錯覚を暴露するためには、こう答えるのが正解である。卵と鳥は同時に誕生した。以上が言語における卵と鳥のパラドックスへの回答となるだろう。

季山時代
2024.01.11

二〇二四年一月十二日

アルカイックとサイエンスフィクションの弁証法

挟まれの進化論

二〇二四年一月十二日。僕は、明後日の哲学を考えて以来、今日が、昨日と明日に挟まれているというイメージを捨て去ることができていないのだろう。そして同様に、現在は、過去と未来に挟まれていると考えいるのだろう。過去的なものが、類人猿というアルカイックなものであり、未来的なものが、未確認飛行物体というサイエンスフィクション的なものなのだろう。興味深いのは、こうして前後が挟まれることによって平和が訪れるという帰結である。既知性と未知性の境界を定めることが重要だということだろうか。僕はこう書いていた。

山地大樹

アルカイックとサイエンスフィクションの弁証法

未確認飛行物体の彼方から、
類人猿が押し寄せる
類人猿の彼方から、
未確認飛行物体が押し寄せる

銀色に輝く円盤の群れが、
人間世界を占拠する
獰猛に暴れる類人猿の群れが、
人間世界を占拠する

過去と未来の弁証法で、
人間たちは結託する
アルカイックとサイエンスフィクションの弁証法で、
人間たちは結託する

やっと訪れた世界平和。
ありがとう類人猿、攻めてきてくれて
ありがとう未確認飛行物体、攻めてきてくれて
君らのおかげで、平和になれたよ

季山時代
2024.01.12

二〇二四年一月十三日

シャンプーと泡帽子

しゃんとしなさい、ぷー

二〇二四年一月十三日。僕は、好きなことの後ろに嫌いなことが潜んでいるとき、好きなことが億劫になるという現象を、シャンプーとドライヤーの関係のなかに見出していた。好きなことだけしていると、無秩序が立ち現われるということを言いたいのかもしれない。そういえば、僕はシャンプーという言葉の響きを昔から好んでいた。シャンとしなさいという秩序だった言葉の後に、プーという気の抜けた言葉が続くからである。この緩急が文章に影響を与えているのだろうか。僕はこう書いていた。

山地大樹

シャンプーと泡帽子

シャンプーをするのが好きである。少量の液体を手にとって髪の毛にこすり付けるだけで、大量の泡が頭のうえに溢れてくる。この膨張力が愛おしい。泡のなかに沢山の空気が入りこんで、頭のうえに泡の帽子が立ち現われる。その帽子は、頭のかたちよりも頭のかたちにそっくりだから不思議である。この泡帽子が愛おしい。しかしながら、最近、シャンプーが面倒くさくて仕方がない。シャンプーするのは大好きなのだが、髪を乾かすというその後の工程を考えると憂鬱になってしまう。何分間にもわたって、ドライヤーという重荷を片手で持ちあげながら、コードに縛られて鏡の前から動くことができない様子は、ほとんど監獄と言えるだろう。この不自由を考えるだけで、大好きだったシャンプーが面倒になってしまう。とはいえ、髪を乾かさなければ、髪の毛が痛んで無造作に乱れてしまうから、ドライヤーをしない訳にはいかない。好きなことだけできないものだろうか。

季山時代
2024.01.13

二〇二四年一月十四日

川端康成の『みずうみ』の感想など

川端康成の『みずうみ』を読んで

二〇二四年一月十四日。僕は、川端康成の『みずうみ』を読んで感銘を受けていた。恐ろしいほどに冷たいエロティシズムのようなものに驚いていたに違いない。僕が書く文章を見て思い出すのは、『レオナルド・ダヴィンチの手記』に出てくるレオナルドの幼少期の想い出である。「そこでしばらく立っていると、突如、私の心の中に二つの感情が湧きのぼってきた、恐怖と憧憬とが。すさまじい暗い洞窟にたいする恐怖、その奥に何か不思議なものが潜んではいはしまいか見たいものだとおもう憧憬である」。この文章のイメージが、川端の描いた少女の黒い目と重なりあう。洞窟とみずうみ、両者は重なりあうのだろうか。僕はこう書いていた。

みずうみ

レオナルド・ダ・ヴィンチの手記

山地大樹

桃井銀平という名前

みずうみという美しい小説を読んだ。書評というほどではない簡単な感想を少しだけ記録しておきたいが、川端康成に関しては勉強不足であることを先に断っておく。この小説には夢のような幻想的な雰囲気が漂っているが、その幻想的な効果を産出しているのは、桃井銀平という主人公の名前である。桃色という鮮やかな世界に対して、みずうみの表面を想わせる銀色が用いられている。銀色をみずうみの表面の反射のようなものだと捉えるならば、桃井銀平という主人公の名前のなかに、桃色の世界を欲望しながら、一切のものを反射する湖面に踏みとどまる自己という印象が与えられている。桃井銀平という名前は、桃色の世界を追いかけることによって自己が消失される地点を表現しているに違いない。「桃井銀平がその少女の後をつけていた。しかし銀平は少女に没入して自己を喪失していたから、一人と数えられるかは疑問である(p67)。桃色の世界を追いかけているうちに、みずからの自己は消失してしまうということである。みずうみの表面の氷が割れない限り、桃井銀平の自己の奥底が顔を覗かせることはない。

薄桃色の世界と薄水色の世界

この小説は、桃井銀平という一人のストーカーの物語なのだが、ストーカーの心情がよく現われている場面がある。その場面とは、久子に会いにゆくタクシーのなかの描写であり、「車のガラスごしに見るものは水色がかる、その対照で、運転席のガラスを落した窓から見るものは桃色くなる(p84)と書かれる。客席の窓ガラス越しに見える風景は薄水色に澄んでいる一方で、運転席のガラスを落とした向こう側の風景、すなわち窓ガラスを通さない風景は薄桃色を帯びている。銀平は、座席から身を乗り出して桃色の世界をながめるが、次第に桃色の世界の空気のなまぬるさに苛立ちを感じて、運転手に掴みかかりたくなる。しかしながら、掴みかかれば狂人になってしまうから、銀平は掴みかかることはなかった。

この場面は、銀平が追いかけている対象が、ガラスを通さない現実としての桃色の世界だということを意味している。この生のままの桃色の世界は、運転手は窓を介さずに直接に享受することができるのだが、客席に座る銀平はその世界を享受することはできず、身を乗りださなくてはならない。このとき、客席は空席になっている。まず注意しなければならないのは、桃色の現実世界は、薔薇色に輝くような美しい世界として描かれていないことである。桃色の現実世界は美しいものではなくて、よどんだ薄桃色として描かれている。「東京は空も巷もほこりによどんでいるから、薄桃色なのかもしれない(p84)と銀平は述べている。そして、しばらく桃色の世界をながめた後に、桃色の世界の空気がどんよりと感じられたことに苛立って、運転手に掴みかかろうとする。すなわち、桃色の世界が望まれてはいるものの、完全無欠ではない否定的な世界として扱われている。

また、もう一つ注意しなければならないのは、客席のガラス越しに見える水色の表面世界が、否定的ではなく肯定的に表現されていることである。「もちろんガラスの色を通して見る世界の方が澄んではいる(p84)と。この小説が興味深いのは、否定的な水色の世界から、肯定的な桃色の世界を追いかけるという一般的な分かりやすい構図ではなく、肯定的な水色の表面世界から、否定的な桃色の世界を追いかけるという、逆説的な構図が用いられていることである。澄んだ水色の表面世界にありながら、よどんだ薄桃色の世界が望まれているのは何故だろうか? このあたりの倒錯的な態度が、物語を魅惑に満ちたものにしているのだろう。

みずうみの表面世界の寿命は短い

この場面をより具体的に考えてみよう。第一に、水色の表面世界にいる銀平が追いかけるのは生のままの桃色の世界である。桃色の世界は、運転手という一人の他者が当然のように享受している世界であり、客席の銀平は身を乗り出さない限りは手に入れることができない。桃色の世界は淀んでいるものの、現実世界であることには変わりない。他方で、銀平がいる水色の表面世界は肯定的な澄んだ世界である。しかしながら、銀平は水色の表面世界にいつまでもいる訳にはいかないのは、幼少期の経験を踏まえているからである。「みずうみを見ながら歩いていると、水にうつる二人の姿は永遠に離れないでどこまでも行くように思われた。しかし幸福は短かった(p23)。水色の世界の表面は冷たく澄んだ美しいものであるが、その幸福の寿命は短くて、決して長くは続かないことを銀平は身に染みて感じている。それが分かっているからこそ、わざとみずうみの表面の氷を割ろうとしたり、花屋の窓ガラスの表面から逃走したりする。水色の世界の表面に映る綺麗なもの、これこそが銀平が愛するものに間違いないが、この表面世界が長続きしないことを知っているゆえに、桃色の世界をのぞんでしまうのではないか。だからこそ、ガラス越しの澄んだ風景から目を逸らして、運転席に身を乗り出してしまうのではないか。

みずうみの奥底に潜む魔界

銀平のような水色の表面世界に憧れている人物にとって、みずうみは表面を映すばかりで、その奥底をみせることはない。みずうみの奥底にあるのは、死か、母か、あるいは魔物が潜んでいるのかは分からない。ただし、水色の表面世界が長続きしないことを知っている人物からは、みずうみの奥底に潜んでいるような特有の魔力が漏れ出しているから、互いに惹きつけ合う関係になれる。「銀平があの女のあとをつけたのには、あの女にも銀平に後をつけられるものがあったのだ。いわば一つの同じ魔界の住人だったのだろう(p18)。魔界を持つもの同士は惹かれ合うのだが、推測すると、以下のような関係性になるのだろう。まず、水色の表面世界を憧れている人物は、これが長続きしないことを知っているから、桃色の現実世界に目を向ける。桃色の世界に向けて身を乗り出しているとき、水色の世界には空席としての穴があけられる。自己は運転席に向かって客席に身を乗り出すから、客席は空席になるのである。そして、ぽっかりと空けられた空席部分に魔力が宿りはじめ、この空席部分に他のストーカーが入りこむ余地が生まれる。この連鎖である。

銀平にハンド・バッグを投げつけることになる水木宮子は、銀平と出会った瞬間をこう描写している。「男から抜け出した男の影が宮子のなかへ忍んでくるように感じられたものだ(p56)。こうして銀平に入り込まれる宮子も水色の表面世界に憧れている人物である。たとえば、有田老人との会話のなかで、「私は水野さんと恋人がうらやましくて、かなしそうにしていただけなんですもの(p59)と述べている。宮子も水色の表面世界を憧れているにもかかわらず、それが長続きしないことを知っている人物の一人である。水野と町枝という二人の水色の表面世界を壊さないように、少しだけふしあわせなことがありそうな薄桃色の世界の町枝の手を握ったその夜、男に付けられている。こうした連鎖が物語のなかで幾度となく繰り返されている。したがって、追いかける側は追われる側でもある。両者は、美しい水色の表面世界を壊したくないという共通点で結ばれている。この小説には、こうした欲望の連関が表現されているに感じられる。

追い、追われる欲望連関

こうした欲望連関のなかで、魔力が連鎖し合う。追う側は追われている側の気持ちがわかるし、追われる側は追う側の気持ちがよくわかる。両者ともに、美しい水色の表面世界を壊したくないという点だけは共通しているからである。したがって空席としての銀平は、ストリイト・ガールやゴム長靴をはいた女に追いかけられるのである。彼女たちは、水色の表面世界を諦めて、桃色の世界に浸かった者たちだろう。さて、こうした考察があたっているのかを検証する余裕はないが、美しい水色の表面世界を壊したくないという暗黙の前提を抱えながら、主人公たちはその表面のうえを滑走するばかりであり、だからこそ、この小説には幻想的な匂いがつねに付き纏っているのではないだろうか、と簡単に考えている。最後に、有名な文章を簡単に考察して終ろう。

少女のあの黒い目は愛にうるんでかがやいていたのかと、銀平は気がついた。とつぜんのおどろきに頭がしびれて、少女の目が黒いみずうみのように思えて来た。その清らかな目のなかで泳ぎたい、その黒いみずうみに裸で泳ぎたいという、奇妙な憧憬と絶望とを銀平はいっしょに感じた」。この綺麗な文章において、銀平は水色の表面世界を描いている。それは、とても綺麗なものであると同時に、長続きしないという意味において絶望が感じられる。こうした水色の表面世界に目を背けるべく、運転手としての水野に話しかけてしまい、突き飛ばされ、土手を転がり落ちることになる。この水色の表面世界を現実に持ちこむときは、現実の桃色の世界との接点にある運転手の存在に触ってはいけないのである。なかなか読み応えのある小説だから、今日はこの程度にして、また別の日に本腰を入れて考察することにしよう。

季山時代
2024.01.14