Archive Walker

皮膚とみずうみ 卵なしご飯の哲学他

日々の記録

依頼者様へ。お世話になっております。二〇二四年度、一月十五日から一月十八日までの調査報告になります。ご参考いただければと存じます。今後ともよろしくお願い申し上げます。

二〇二四年一月十五日

皮膚とみずうみ

表面のエロティシズム

二〇二四年一月十五日。僕は、川端康成の『みずうみ』というストーカー小説と『眠れる美女』という女体を愛撫する小説を読んでから、なにか書きたいと思っていた。谷川渥の『三島由紀夫─薔薇のバロキスム』『鏡と皮膚』を読んだこともあり、表面のエロティシズムなるものが気になっているらしい。とはいえ、僕が書く文章を見ると、単なる表面のエロティシズムというよりも、表面にとどまりながら顔や性器という重要な部分を見ることすら許されていないことを描いているように思う。それにしても、不思議な文章である。僕はこう書いていた。

みずうみ

鏡と皮膚

三島由紀夫 薔薇のバロキスム

山地大樹

皮膚は宏大なみずうみである

静寂の夜。深い藍色の背景のうえに大きな満月が一つ輝いている。砂漠のうえ、月灯りが照らすのは、呼吸によって微かに震える、白く滑らかな一つの身体。横たえられた大きな身体に梯子をかけて、小さな僕はのぼってゆく。落ちないように、一段一段ゆっくりと。梯子の最後の一段にたどり着いて、身体と手が届く距離に近づいたなら、洋服を脱いで梯子にかけて、皮膚に向かって慎重に飛びこむ。湖面は少しばかり冷えていて、心臓がきゅっと締まる。あの子の皮膚は宏大なみずうみである。砂漠の風に吹かれて、皮膚のうえには綺麗な波模様が現われている。満月の夜、あの子が眠りについているときにだけ、小さな僕は泳ぐことが許されている。あの子を起こさないように、静かな平泳ぎで遊泳しなければならない。

黒子という北極星

白い皮膚のうえを、いつもの目印に向かって泳いでゆく。あの子の右乳房のしたにある可愛らしい黒子ほくろである。騒がしい音楽が流れるクラブの端っこで、哀しげな影を漂わす雪子とはじめて出会った夜、その白い皮膚の美しさに目をとられて声をかけていた。

ねえ、君の後ろにある、その哀しげな影を僕に預けてよ。僕は影を集めているんだ。

私の影が見えるの? 預けてもいいわ。その代わり、君の影を預けてくれないかしら。影を交換しましょう。

僕と彼女は影を交換した。もちろん、実際に影を交換することなどできないけれど、少しだけ手を握りあうと、僕の影が彼女の影へと入っていき、彼女の影が僕の影に入ってきたように感じられた。会話はそれっきりで、彼女は騒がしいクラブのなかに溶けていこうとしたから、僕は思わずひきとめて、名前だけ教えてくださいとたずねると、雪子、と小さく答えて足早に去っていた。その日から、影を見るたびに雪子を想い出すことになったが、彼女の名前以外の情報をなにも知ることはできなかった。雪子は影そのものである。顔は暗闇で見えなかったし、声も大きな音楽にかき消されて忘れてしまった。ただ一つだけ印象に残っているのは、雪子に似合わず大胆なシースルーの上着から透けて見えた小さな黒子である。右乳房の影に落ちた小さな黒子。暗闇のなか、白い皮膚がピンクやイエローの光に照らされたとしても、その小さな黒子の色だけは変わらずに凛と輝いていた。雪子の白い皮膚のなかで、この黒子だけは動かない北極星だった。皮膚を遊泳するときの目印は、右乳房のしたの小さな黒子以外は考えられない。雪子、君はいま元気でいるのかな。僕は影を失ってしまったけれど、君が元気で生きていたら、それでいい。

道連れにされた幻想の女性

顔を出して緩やかに息継ぎをしながら、平泳ぎで黒子にたどりつくことができた。右乳房のふもとにある黒子に手をかけて這いあがり、少しばかり呼吸をととのえる。黒子の島のうえには、小さなの手帖が一つだけ置かれている。はじめて訪れたときに置いたものである。手帖の最初のページを開くと、正の字が八つ並べられているから、その横に一本の棒を足さなくてはならない。この遊泳で四十一回目の訪問になる。満月が来るたびに訪れているから、もう三年半も通っている計算である。三年半前のあの日、罪を犯さなければこんなことになるはずもなかった。

大好きなあかねへ。僕は、君のために睡眠薬を飲むことを決めました。君のために死のうと思っています。紅葉が空をあかく染めた日、君を大好きだと僕が伝えたとき、君は僕を大好きだと言ってくれました。こんな幸福ははじめてだったから、僕は思わず泣いてしまって、君が優しく抱きしめてくれたことが懐かしい記憶です。けれども、幸せな時間は短命で、君はすぐに知らない誰かのもとへと消えてしまいました。君が悪いわけではないし、僕が悪いわけでもないのも分かっているつもりです。恋心なんて水の流れみたいなもので、自然と低いところへ流れてゆくものだから。ただ、君が知らない誰かのところへ行ったとしても、僕は君が大好きなままでした。君が大好きなままだと、そう信じて日々を過ごしていました。君が大好きだということが僕のすべてだったのです。けれども、今日の朝、いつもみたいにコーヒーを飲んでいるとき、コーヒーの表面に映りこんだ僕の顔を見て、ふと気が付きました。僕が大好きなままでいたのは、君ではなくて、僕のなかにいる幻想の君なんだと。僕が大好きなままでいたのは、知らない誰かのもとへ行くまえの君だし、いつだって笑顔でコーヒーを淹れてくれた君なんだと。そんな君はもう過去のものだから、幻想でしかないと気が付いたのです。思い返せば、君がいなくなったあとに僕が追いかけていた君は、一度たりとも泣き顔を見せることはなく、不自然なほど笑顔をくずすことはありませんでした。僕の過去は、君がいなくなったときから凍結していたのです。僕は馬鹿だから、君を大好きなままだと信じていたけれど、結局のところ、君のことなんてどうでもよくて、僕のなかにいる幻想の君ばかり追いかけていたのです。君が大好きなままでいるという外観にすがりついていたのです。とはいえ、困ったことに、幻想の君を追いかけていることに気が付いたとしても、僕のなかの幻想の君は輝きを増してゆくばかり。君は変わってしまっても、僕のなかの幻想の君はいつまでも変わらずに輝き続けるから、僕は、僕のなかの幻想の君が大好きだということから降りることができず、どうしても過去から抜け出せない。ただ、幻想の君を好きなままでいるのは、いまを生きている君に失礼だと感じています。幻想の君を殺すために僕にできること、それは僕自身が死んでしまうこと以外は考えられません。幻想の君を引き連れて、僕は知らない世界へと行きます。もう会うことはありませんが、君が幸せになることを願っています。

三年半前、一通の手紙だけを残して僕は自殺した。掌いっぱいの睡眠薬を胃のなかに流しこむと、やわらかい風とあたたかな匂いに包まれ、次第に意識が遠のいていった。目が覚めたとき、広大な砂漠のなかで一人ぼっちで転がっていた。自殺したときと同じ背広姿のまま、砂漠のなかに転がっていたのである。地獄か天国かもよく分からない不思議な場所で、満月が煌々と輝いて、眠りについている女性の身体が置かれていた。その身体はとても大きく、はじめは身体だと分からないほどであったが、とても長く伸びた梯子がかけられていて、梯子をのぼりきったとき、これが大きな女性の身体だと分かった。その身体はあまりに大きいから、俯瞰で眺めることはできず、皮膚を遊泳しながら全体像を想像することしかできない。誰か分からない匿名の女性なのである。はじめは不思議な場所に困惑し続けていたが、何度か考えているうちに、この仰向けに眠り続ける女性は、自殺したとき引き連れてきた幻想の女性だと腑に落ちた。この眠りについた女性は、雪子でも茜でもなく、僕がいままで出会ったなかで愛した女性たちをすべて引き受けた女性であり、雪子でも茜でもある。

三年半も過ぎたいまだからこそ理解できるのは、自殺したとき、幻想の女性を引き連れてしまったことが僕の罪だということである。自殺したことに後悔はないが、自殺するとき、なんの罪もない一人の幻想の女性を道連れにしたことが罪の根源であり、その罪を償うために、この不思議な場所に送りこまれたのだろう。この場所には三つの約束事がある。第一に、女性の皮膚を遊泳できるのは満月の夜に限るということ。月が満ちていないとき、女性の皮膚はガラスのように硬く閉ざされていて、そのなかを泳ぐことはできない。満月以外のあらゆる夜は、満月の日を待つための夜になる。第二に、女性の皮膚の奥に潜れないということ。潜水しようとしても、ある程度の深さまで潜ると途端に息が苦しくなり、それ以上は進めなくなる。皮膚にとどまらなくてはならない。第三に、この眠りについた女性を起こさないように息を潜めなければならないこと。三つ目に関しては、約束事というよりも、心の奥底に微かに響きわたる良心の声のようなもので、この声に従わないと胸が騒がしくなる。この場所の静寂は保たれなくてはならない。

乳房の谷間の浅瀬

手帖をそうっと黒子に置いてから、右乳房のふもとにある黒子から周囲を見渡すと、近くに右乳房の山が、遠くに左乳房の山が聳えている。陶器の椀のような綺麗な山の頂上には乳首があるのだろうが、斜面はあまりに急だから登ることはできず、乳首にたどりつくことは許されていない。黒子の端っこに腰を下ろして、足からそうっと皮膚のなかへ入りこみ、右乳房と左乳房のあいだの谷間をめざして泳いでゆく。谷間の方へ近づいてゆくと、月明かりの影になっているからだろうか、一段と冷たく感じられてきたから、平泳ぎからクロールへと切り替えて谷間のなかを静かに進んでゆく。乳房の谷間にさしかかると、水深は浅く、微かに浮き出した胸骨の地面に脚がつくこともある。珊瑚礁が浮かぶ夏の浅瀬のような皮膚。

私、胸が小さいのがコンプレックスなの。洗濯板みたいにぺたんこで、あばらが浮き出しているの、イヤじゃない?

渚沙なぎさの可愛らしい声が聴こえてくる。まだ若くて悩みが多かった頃、自分のことが分からなくなって海外を一人旅していたとき、日本人宿で出会った少女である。小柄で、日焼けした健康的な肌と、柔らかな澄んだ声をもつ、栗鼠りすのような少女であった。数日間、ともに旅をしてまわったあと、夕陽が綺麗なベトナムの海岸線で波を眺めているとき、小さい胸がコンプレックスだと打ち明けられた。僕は何も答えることができなくて、沈黙のなか、寄せては返す波の音だけが響いて、時間が停止したような気がした。あのとき、胸の大きさなんてどうでもよいと即答すればよかった。実際、胸の大きさなんてどうでもよかったのである。ただ、渚沙が、その答えを期待していることが分かってしまったから、期待どおりの答えを言いたくなかった。もし期待どおりに答えてしまったなら、渚沙の言いなりになってしまう気がしたから。渚沙の理想像を演じないために、何となしに沈黙してしまったのである。

沈黙のあと、渚沙の瞳には徐々に涙が溜まっていき、とうとう背を向けて駆け出してしまった。僕は追いかけることもせず、その後ろ姿が小さくなるのを眺めていた。渚沙は追いかけて欲しかったのかは分からないが、多分、追いかけても手遅れだっただろう。そんなことを考えながら、乳房の谷間にある皮膚の浅瀬を歩いているが、胸骨の凹凸が足の裏に触れて固い。渚沙のことを想い出すのも四十一回目。もう四十一回も後悔したのだから、いまなら渚沙の目をみつめて即答できるだろう。その答えを小さく呟いてみる。渚沙、胸の大きさなんてどうでもよい、君のことが大好きだよ。そう呟いたとき、どくんどくんと、皮膚の浅瀬が少しだけ脈打った気がした。この谷間は心臓に近い。もしかすると渚沙が笑ったのかもしれない。渚沙の無邪気な笑顔が想像しながら、膝をついて、皮膚に顔を沈めて大地に接吻した。

鎖骨の淵と顔

乳房の谷間を抜けて泳ぎ続けると、鎖骨によって皮膚が隆起していて進めなくなる。鎖骨と鎖骨のあいだ、喉の窪みへに繋がる道だけが唯一ひらかれているが、滝のような厳しい勾配になっているため、入りこむと戻れなくなってしまう。これ以上は進めない淵である。鎖骨の隙間から喉の方面を眺めると、顎の輪郭がくっきりと見えるが、顔だけがどうしても見えない。この女性の顔だけが決して見えないのである。何かを話しているかもしれない。何かを見つめているかもしれない。目を開いているか閉じているかも分からない。ひよっとすると、自分自身の顔なのかもしれないし、両親の顔なのかもしれない。恐ろしく醜い顔なのかもしれないし、此の世のものほど思えないほど美しい顔なのかもしれない。ただ、それを見ることは許されていない。未知なる顔に、恐怖と憧憬をおぼえながら、引き返さなくてはならない。

新しい生命と臍

乳房の谷間へと引き返して、微かに見える腹筋の線に沿って泳いでゆくと臍に到達する。皮膚のみずうみのなかでもっとも恐ろしい場所に感じられるのは、臍の奥底を決して想像できないからだろう。臍はどこよりも深く、汲み尽くすことができない。奥底から、少しばかり水が湧き上がっている。臍の深淵をのぞきこむと、どこまでも深い暗闇へと続いていて、まるで龍の目にのぞき返されているようである。

このなかに赤ちゃんがいるの。私はもう私のものではなくて、赤ちゃんのためのものなのよ。ほら、動いていてる。元気に産まれますように。

春香はるかはそう言いながら、膨らんだお腹を優しく撫でていた。物理学を専攻していたときの同僚であり、卒業してから肉体関係を結ぶだけの仲であった春香だが、彼氏ができてからは、たまに酒を飲みに出かけて、手をつなぎながら散歩する程度の関係になっていた。とりたてて容姿が可愛いわけでもないが、愛嬌があり、誰からも愛される小鳥のような存在で、無言でも居心地がよい雰囲気が気楽だった。半年ほど連絡が途絶えていたある日、久しぶりに春香から連絡がきて、最後に一度だけ会いたいという文面が書かれていた。桜を見に行こうと千鳥ヶ淵に集合すると、春香のお腹が大きく膨らんでいるのが分かり、妊娠したことを告げられた。子供を授かったことを契機に、長く付き合っていた彼氏と結婚したという。確かに、春香の指には金色の結婚指輪が嵌められていた。

もう会うのは最後にしたいという春香の言葉に対して、幸せになってくださいと答えた。悲しくはないが、居心地がよい場所が一つ失われたと感じるばかりで、居酒屋で最後の唐揚げが食べられてしまった感情に似ていた。食べたいわけではないが、なくなると少しだけ寂しい。春香とは、珈琲を飲みながら散歩するのが通例であるから、香りのよい珈琲を二つテイクアウトしてきたが、お腹のなかの赤ちゃんのために珈琲を控えていると知り、二杯目の珈琲をそそくさと飲み干すと、お金は払うわと春香が優しく言うから、少しだけ泣きそうになりながら、いいよと呟いた。春香はかつての春香ではなくて、赤ちゃんを保護するための容器として生きていた。お腹の向こう側、暗闇のなかに溺れている小さな生物のため、全存在を捧げるためだけに生きている。

彼氏ができたら肉体関係を辞めること、結婚したら会うのを辞めること、飲んでいない珈琲の代金を払うと言えること、そして赤ちゃんのために容器になりきれること、こうした当然のことを難なくこなす、春香の綺麗な優しさが好きだった。それにしても、ゆったりとしたシャツワンピースの向こう側、お腹の膨らみを纏った赤ちゃんは、どんな顔をして、どんな姿で生きているのだろう。不意に興味が湧いて、春香にお腹を撫でていいかを尋ねると、優しくならと答えるから、広げた手のひらで膨らんだお腹を撫でてみると、滑らかなお腹のちょうど中心付近で、少しだけ飛びだした臍の感触が手に伝わり、その途端、春香という容器と胎児という中身が、臍という一本の線で結ばれているのが想像され、急に春香が不気味に感じられると同時に、恐ろしいものが体中を走り抜ける気がした。思わず手を放すと、どうしたのと春香が聞いてくる。咄嗟に、赤ちゃんが少しだけ動いたような気がして驚いたと答えたが、多分、春香は嘘に気がついていたに違いない。心配そうにこちらを見ていたから。

春香の臍に触れたとき、得体の知れない生物に春香が奪われたような気がしたのである。春香が春香でなくなってしまって、容器として生きるの彼女の存在が恐ろしくなったのかもしれない。まだ産まれてもいない得体の知れない生物に対して、みずからの全存在を生贄として捧げることを、どうして当然のように実行できるのだろうか。その強い精神力はどこから湧いてくるのだろうか。そんな気持ち悪さだけを胸に残したまま、元気な赤ちゃんが産まれるといいなどと適当な会話をして、さようならを告げ、彼女の後ろ姿が小さくなるのを眺めていた。彼女は桜のように澄みわたった心で、自分の子供のために生きてゆくのだろう。皮膚のみずうみに浮かびながら、不気味なほどの深みを持った臍を見ていると、いまごろ産まれているはずの春香の子供の姿が浮かんでは消えてゆく。その子供の輪郭はっきりせず、顔も朧げなままである。春香が容器になってまでも守りたい生物が確かに存在すること、これを素直に祝福できるにはどれほどの年月が必要なのだろう。

黒い森

臍をとおり抜けて真っ直ぐ進んでいるが、少し疲れてきたから、平泳ぎから背泳ぎに切り替えて、ぷかぷかと浮かびながら進んでゆくことにする。藍色の夜空には、美しい満月が静かに輝き続けている。満月をじっと見ていると、太陽から光を譲り受けながら、その光を闇夜に徐々に溶かしてゆくような雰囲気があり、鏡が風景を反射するためだけに在るように、太陽からの光を滲出するためにだけに輝いているように感じられた。満月を眺めながら、ばたばたと足を動かしていると木漏れ日が降り注ぎはじめる。幾重にも重なりあう隠毛が、満月の光を引き裂きながら揺らしている。湿った白い身体に似合わず、黒いちぢれ毛が逞しく生えてゆく様子は生命そのものである。陰毛は身をよじらせながら、夜空に向かって背を伸ばしてゆく。一本ごとの形態には差異があるものの、決して無秩序などではなく、空をめざして健やかに伸びようとする意思によって秩序づけられている。陰毛は、群れのなかで生きようとしている。隠毛はたしかに強く存在している。

背泳ぎから平泳ぎに切り替えて、隠毛の隙間を縫うように泳いだあと、すぐに引き返すことを決意する。先に進みすぎると、滝のような隙間に落ちて戻れなくなるからである。決してその先に行ってはいけない。その先のことを考えると、その先にみずからが進んでしまうことを考えると、恐ろしく不安な気分になる。この黒い森の向こう側には、ひとを食べる魔物が住んでいるのだろう。所詮、罪を背負った人間には上半身の皮膚以外の居場所など残されていない。乳房の先にある乳首も、喉元の先にある顔も、黒い森の先にある穴も、見ることは許されていないのである。身体の向きを反転させて、クロールしながら右乳房のふもとの黒子をめざす。もうすぐ満月が沈むから急がなくてはならない。臍を横目に通り抜けて黒子にたどりつく。黒子にのぼり、梯子の位置を確認してから泳ぎ出す。梯子の先端にたどりつく。梯子にかけておいた背広を羽織ってから、梯子を降りてゆく。次に満月がのぼるのは一ヶ月後、四十二回目の遊泳を待ち続けなくてはならない。

季山時代
2024.01.15

二〇二四年一月十六日

跳ねる蟷螂の大群

シュルレアリスムの絵画のイメージ

二〇二四年一月十六日。僕は、シュルレアリスムの絵画が突如として想起される現象に襲われていた。不意に頭のうえに浮かんでくる絵画は、印象派でポスト印象派でもなく、いつもシュルレアリスムの絵画である。イメージを喚起する力のようなものがあるのだろうか。それとも、ダリに自分自身を重ね合わせたいという欲望がイメージを喚起させるのだろうか。ダリは、フロイトの精神分析にあてはまるように自分自身を改造して、ミレーの晩鐘に関する天才的な解釈をほどこしたが、僕はそういう仕事をしたがっていたからである。ダリの方法論に影響を受けたのがコールハースの手法だとすれば、僕は建築に未練があることも透けてみえる。僕はこう書いていた。

夢判断

ミレー『晩鐘』の悲劇的神話

錯乱のニューヨーク

山地大樹

跳ねる蟷螂の夢分析

蟷螂の大群ががぴょんぴょんと跳ね続ける夢を見た。目覚めて気がつくのは、跳ねるのは飛蝗であって蟷螂ではないということだが、蟷螂の連想からはじめよう。まず蟷螂で連想されるのは、蟷螂の雌は交尾中に雄を食べようとすることである。そこから、ダリが『晩鐘』に女性の攻撃性を解釈したことが連想される。蟷螂が大量にいることを考えると、マグリッドの『ゴルコンダ』の風景が連想される。なるほど、シュルレアリスムという繋がりがあるのかもしれない。端的にまとめると、複数の匿名の女性の攻撃性だろう。跳ねるという点に関しては、昼御飯にペペロンチーノをつくる際に、ニンニクが跳ねたことが考えられる。ニンニクといえば口臭を連想するのは当然であり、口臭が女性との接吻を退けるだろう。ともすれば、跳ねる蟷螂の群れというのは、女性と遊ぶことを退けようとする女性の集団なのかもしれない。浮気の反対をうたいながら群れる女性たちだろうか? 僕が欲求不満だというのだろうか? なるほど、蟷螂の目はこちらを睨みつけて、いまにでも襲いかかってきそうである。

季山時代
2024.01.16

二〇二四年一月十七日

フォーと水溜り

汚い駅のトイレと綺麗で透明な存在

二〇二四年一月十七日。僕は駅のトイレの中が水浸しになっているのを見て、綺麗な水と汚い水の違いを考えていた。蛇口から出る水は綺麗なものなのに、トイレの床に落ちた途端に汚いものとして感じられる理由はどこにあるのだろうか、と。このとき、ベトナムの体験が想起された。僕の書く文章をトイレでの体験と比較すると、逆転した関係にあることが分かる。トイレでの体験において、蛇口から出てくる綺麗な水が、床に落ちることで汚い水溜りになるのだが、ベトナムでの体験において、貧困層の男が食べている汚いフォーが、床に落ちることで綺麗な水溜りになる。こうして、透明で心地よい吐き気が生じる。透明で心地よい吐き気という表現がサルトルの影響だとするならば、フォーは綺麗な存在に変貌したのだろうか。綺麗で透明な存在とはなんだろうか。また考えなくてはならない。僕はこう書いていた。

山地大樹

フォーを床に捨てる男

不意に想起されたベトナムの回想。ベトナムを訪れて強烈に印象に残っているのは、道路上でフォーを提供する小さな屋台において、ある褐色肌の男が、フォーの残り汁を道路にぶちまけるのを見たことである。アジア特有のプラスチック製のカラフルな椅子が六つほど置かれた、地元感のある小さな屋台における、汚いアスファルトの路地のうえを舞台にした出来事であった。貧困層の男がご飯を捨てたことに対する不信感とか、せっかくの美味しい食べ物がもったいないという正義感といった後付けの理由ではなく、男がフォーをぶちまける瞬間の印象だけが目に焼き付いて離れなかった。ぶちまけられたフォーは、灰色の道路のうえに水溜りをつくっていたが、驚くべきは、道路のうえに捨てられたフォーが想像以上に透明だったことである。前日には小雨が降っていて、道路にはところどころの水溜りがあったのだが、水溜りとフォーは見分けられないほど似通っていた。どちらも浅く透きとおっていたのである。それからしばらくは、すべての水溜りがフォーに見えてきて、水溜りを見るたびに透明で心地よい吐き気を感じたものである。いまでも水溜りを見ると、フォーなのではないかと疑うこともある。

季山時代
2024.01.17

二〇二四年一月十八日

卵なしご飯の哲学

究極の卵かけご飯

二〇二四年一月十八日。僕は、卵かけご飯を食べようとして、卵を白米のうえに落としこもうとしたが、その白いご飯の存在がやけに光り輝きはじたのか、白ごはんに数秒間ほど見惚れていた。思えば数日前、究極の卵かけご飯というのがテレビ番組で特集されていたが、そんなものはあり得ないと僕は腹を立てていた気がする。多分、究極の卵かけご飯とは、卵なしの卵かけご飯だと確信していたからだろう。僕はこう書いていた。

山地大樹

卵なしご飯

卵なしご飯、と彼は呟いた。太陽のような、眼球のような、卵の豊 潤なイデアが立ちどころに現象して、卵は美しい音楽をかなでた。

卵なしご飯は、ただの白米のご飯を意味しているだけである。しかしながら、その意味とは裏腹、卵なしご飯という言葉は卵を強烈に喚起させる。《卵かけご飯》と表現する場合、頭のなかに浮上するのは卵かけご飯そのものである。それはサルトルが想像力の問題で明らかにした仕方において、一挙に喚起されて、それ以上の響きや匂いを持つことはない。卵かけご飯という言葉は、卵かけご飯を喚起させる以上のものではあり得ず、頭のなかには死んだ事物としての卵かけご飯が浮上してくる。死んだ事物として現象する卵かけご飯は、卵かけご飯でしかなく、頭のなかに浮上する卵かけご飯をくまなく点検してみても、なんら新しい情報は与えられない。では《ご飯》と表現する場合はどうだろうか。これも、卵かけご飯と同様、お椀一杯の白米が浮上してくるばかりであり、それ以上の豊潤さを持つことはない。卵かけご飯にせよ、ご飯にせよ、イメージは完結していて、震えを欠いた貧しいものとして現われる。

卵なしご飯の分析

他方で、《卵なしご飯》と表現する場合、その言葉が喚起する茶碗に盛られた白米には、確かな窪みがあり、イメージが震え続けるのを感じ取れる。 現実のどの卵よりも艶やかな卵が、現実のどの橙黄色よりも鮮やかな橙黄色卵が、窪みのなかに入りこもうと疼いている。しかしながら、その卵はご飯のうえに落とされるのを言語によって拒否されている。卵がご飯のうえに落とされた途端、その卵は消失しなければならない。なぜなら、卵が乗せられた時点において、それは卵かけご飯になってしまうのだから。要するに、卵なしご飯という表現は、ご飯のうえに不在を現前させるのである。その不在のうえに、卵は滑りこもうと尽力するのだが、滑りこむことは否定されている。卵は、卵かけご飯になるために呼び出された存在にもかかわらず、卵かけご飯として存在することは許されていない。こうした存在の否定において、卵は甘美で豊潤なものとして、瞬間的に現前する。

卵はどこから来たのか

とはいえ、ここで問わなくてはならないのは、卵なしご飯における卵はどこから来たのかである。この卵は、過去に見たことある卵かけご飯から、掬い取られたようなものではない。もしそうならば、卵は一つのイメージに収斂して、ピンポン球のようにご飯のうえを弾み続けるだろう。要するに、卵を一つの実体のようなものだと仮定するならば、それがご飯のうえに乗ろうとして弾き返されるような、そんな反復が想像されるに違いない。しかしながら、そんなふうにはなっていない。卵なしご飯における卵は、ご飯のうえ に落とされたその途端、跳ね返ることなく消滅して、また新しい卵が呼び出されてくるというふうになっている。然るに、卵は言語によって呼び出されて誕生したのち、言語によって白米のうえに落とされて死にいたる。卵なしご飯という言葉は、卵の誕生と死をその都度に喚起させるのである。まだ確信を持って言うことはできないが、卵なしご飯という表現によって喚起される卵は、多分、言語のなかに内包された卵ではないだろうか?

季山時代
2024.01.18