Archive Walker

金庫の愛と三五〇円の僕の天使 嘘とゴミ箱他

日々の記録

依頼者様へ。お世話になっております。二〇二三年度、八月十日から八月十二日までの調査報告になります。ご参考いただければと存じます。今後ともよろしくお願い申し上げます。

二〇二三年八月十日

金庫の愛と三五〇円の僕の天使

罪を背負う天使

二〇二三年八月十日。僕は、あるべきところにあるはずの三五〇円が見当たらず、それを探しまわっていたが、三五〇円が不足している理由が明らかになって安心したようだった。その三五〇円は、ある仕事の過程で失われた記号としての三五〇円であり、現実としての三五〇円ではなかったのだが、架空の三五〇円を追いかけて物語が進んでゆく様子のなかで、僕は、失態を失態のままに放置することによって愛が生じるという不思議な循環を発見したようである。その失態の罪を背負う比喩として、天使という像が描かれているのは奇妙であり、いずれ解明されなくてはならない点である。ところで、天使とはなにか? そういえば、当日の昼頃、ダヴィンチの『洗礼者ヨハネ』が天使であるという分析を想い出して、ダヴィンチの奇妙なスケッチが頭に残り続けていた。あのスケッチが、金庫に結びついたのだろう。僕はこう書いていた。

レオナルド・ダ・ヴィンチ

山地大樹

現金の移動という儀式

三五〇円が足りない。洋服のなか、財布のなか、どこを探しても見当たらない。抽斗という抽斗をすべて開けても見当たらないし、床という床をすべて漁っても見当たらない。しばらくして、三五〇円など見当るはずがないことが判明する。なぜなら、そんな三五〇円はそもそもなかったからである。三五〇円は盗まれた不在の花なのだ。事態の詳細はこうである。僕は、ある組織の上役から現金の移動を依頼された。ある金庫から決められた金額を出金してから、すぐ隣にあるもう一つの金庫に入金するという仕事である。この現金の移動に意味があるのかは分からないが、組織の決まりとして朝晩に必ず行なわなくてはならない。その作業は、ほとんど未開の民族の儀式さながらのもので、隣の金庫に現金を移動する意味を問うてはならず、その理由を聞いた者は呪われると言われている。金庫は電子式であり、出金や入金の際には金額を手動で入力しなければならないのも、現代にしては原始的すぎる。

二つの金庫のあいだ

依頼日の当日の夜、幾つものエレベーターを乗り継いで金庫のある階に向かった僕は、複雑な迷路のような通路を抜けて、横並びに二つ並んだ金庫の前に到着するのだが、金庫に向かう通路の途中には、外国人の顔写真が壁に貼られていたり、犬の頭部の模型が転がっていたりと、不気味で恐ろしく感じられた。こんな気味の悪い場所に長居したくはないから、はやく仕事を終わらせなくてはならない。二つに並んだ金庫は、光を鈍く反射しながら、なにかを吸いこみそうな妖艶な魅惑を纏わせていたが、なによりも、二つの金庫のあいだの空虚に漂う空気が冷え切っているのが不思議で、冷蔵庫のような寒気を想像させた。まずはじめに左側の金庫の前に立ち、金庫から出金する金額を入力しなくてはならない。その日に決められていた金額は八万四千三五十円。金額の入力は紙幣や硬貨ごとだから、一万円札を八枚、千円札を四枚、百円玉を三枚、五十円玉を一枚、と入力しなくてはならない。ただ、午前中の犬の散歩のせいだろうか、この時の僕は数字を正確に入力するには疲弊しすぎていた。

払い出されなかった硬貨

金庫までの通路の不気味さに焦り、愛犬の散歩で疲労に満ちた僕は、あろうことか、硬貨を入力し忘れたまま出金ボタンを押してしまう。金庫は苦笑いしながら八万四千円を素早く吐き出して、一二枚の紙幣だけが手元に払い出され、そこに硬貨の影はないと気が付いたときには、もう手遅れであった。三五〇円が足りない。三五〇円を出金し忘れたのである。心臓が脈打ち出し、冷汗が溢れ出し、なにも分からなくなり、僕が僕でなくなる気がした。これほど単純な仕事すら上手にこなせない僕は、何者にもなることもできない物体以下である。しばらくして、深呼吸をして自分を取り戻した僕は、出金し忘れた三五〇円を追加で引き出そうと金庫を弄り回してみるが、出金は一度しかできない仕組みとなっているのか、金庫はピクリとも反応せず、不感のまま凍りついた死体と化していた。破れた処女膜は二度と戻らない、と勤勉な男が賭博場で吐き捨てたセリフが突如として頭のなかに浮かんできた。

外部のない対空間

次に、三五〇円を出金できないのだから、引き出し忘れた三五〇円を自腹で出せばよいのではないかと考えた。この見通しの立たない状況に決着をつけるためなら三五〇円など安いものである。しかしながら、そんなことも許されない。この仕事は、単なる現金の移動でしかないから、二つの金庫の総額が変更することはあり得ない。要するに、ゼロサムゲームなのである。現金の移動という仕事の性格からして、二つの金庫を除いた外部からの介入は決して許されず、二つの金庫は二つの金庫のなかで完結しなくてはならないから、勝手に三五〇円を追加することなど許容されない。この三五〇円の差額は、いかなる方法を持ってしても解決することはできない、その原理からして解決不可能な差額なのである。残された唯一の選択肢は、引き出した八万四千円を隣の金庫に入金することだけだから、僕は手元の札束を隣の金庫におとなしく入金した。当然、出金した金庫は想定より三五〇円の余分を、入金される金庫は想定より三五〇円の不足を持つことになる。余った三五〇円と、足りない三五〇円。金庫の総額は変わらないままに、二つの金庫には不思議な凸凹が生じたのである。

金庫の愛

三五〇円の違算の発生は仕事の失敗を意味していたが、僕はなんだか金庫に愛おしさを覚えはじめていた。というのは、目の前の二つの金庫が男女の関係に見えてきたからである。一つ目の金庫は三五〇円の余った部分を持っていて、もう一つの金庫は三五〇円の不足した部分を持っていて、三五〇円という凸凹は足し合わされることで消滅するから、二つの金庫は対のまま一つになろうとしている。三五〇円の男根は愛を求めて彷徨って、もう一方は三五〇円の男根が隙間を挿し塞ぐこと待ち望んでいる。僕は恋のキューピットさながら、二つの金庫に関係性を紡ぐことに成功したのであり、冷え切っていた二つに並んだ金庫の隙間に、電子レンジのような熱気が帯びはじめるのが感じられた。三五〇円の差額によって、赤い糸が架けられた二人の金庫が互い欲望しあう。愛しあう金庫を眺めながら、邪魔者になった気がした僕は、今すぐにここを立ち去らなくてはならないと考えたが、その前に、組織の上役に仕事の失敗を報告して謝らなくてはならないと思い至り、右ポケットの携帯電話に手をかけようとした矢先、何者かの声が唐突に聴こえてきた。

それがどうしたっていうの? そんな些細な金額は放って置けばいいわ。君の失態が二つの金庫に愛を与えたんだから、その愛を奪うことなど許されていいはずないわ。ねえ、知ってるでしょ、失態はいつも失態とは限らないの。失態が愛を生じさせるの。盗まれた手紙は盗まれたままでいいし、忘れられた洋服は忘れられたままでいいの。

愛の責任

突然聴こえた声は、頭のなかに反響する美しいものであり、その内容は驚くほどの説得力を持っていた。なるほど、三五〇円の些細な誤差など放って置けばよいし、むしろ放って置かなければならない。そうでなければ、二人の金庫の愛は死んでしまうのだ。愛のために失態を報告をしてはならないという責任。仕事への責任は愛への責任に変わり、僕は二人の愛の責任を背負うことにした。二人の金庫の愛の保証人として生きる僕は、今よりきっと美しく輝いているはずだ。右手でポケットをまさぐり、携帯電話の電源をそっと落とした。

天使の声

ところで、突然に反響したこの声は誰の声なのだったのだろうか。多分、この未知なる声の持ち主は、二人の金庫の愛の保証人として生きる僕が、他の誰かと愛を紡ぐことを保証する天使なのだと思う。二人の愛は保証されなくてはならず、保証人がなければ愛は成立することはないが、その保証人が愛を紡ぐためには、また別の保証人が必要であり、こうした無限の連鎖のなかで愛は循環してゆのだろう。神秘の代弁者としての天使は、いつ、どこで、僕の三五〇円を盗んだというのだろう。そして、三五〇円の誤差という失態を誰にも話さずに、その罪を背負ってい続けている天使に感謝しなければならない。

季山時代
2023.08.10

二〇二三年八月十一日

君のためなら生きてもいいかな

モスバーガーの恋と愛

二〇二三年八月十一日。僕は、延長手続きをするために図書館に向かっていたが、図書館が閉館日であることに気がついたため、噴き出す汗を沈めようと、行き場を失った本を抱えながらモスバーガーに入店して、アイスコーヒーを頼んで一息つくことにした。僕の右隣では、ニューエラの帽子を付けた小学生の男女がポテトを食べながら楽しそうに戯れて、僕の左隣では、赤ちゃんを連れた家族づれが幸せそうに話していた。両隣に異なる幸せのかたちを見た僕は、それを恋と愛の違いに置き換えてみたのだろう。この瞬間を楽しんでいる小学生の恋と、赤ちゃんのために生きなければならない母親の愛の対比だろうか。タナトスとエロスの違いだろうか。僕はこう書いていた。

自我論集

山地大樹

恋と愛の違いについて

君のためなら死んでもいいかな、なんて思えるひとは幾らでも見つけることができるけど、君のために生きてもいいかな、なんて思えるひとは何時も一人だけしかいない。多分だけど、君のためなら死ねるというのは恋であって、君のために生きるというのが本当の愛なんだと思う。だから、僕は君のために生きなくてはならない。たとえ君が死んでしまったとしても。いつまでも君のために。

季山時代
2023.08.11

二〇二三年八月十二日

嘘とゴミ箱

ピカソの蒐集癖

二〇二三年八月十二日。僕は部屋の片付けをしながら、ゴミ箱いっぱいのごみを見て途方に暮れていた。小林秀雄のピカソの分析を読んでいたから、ピカソの蒐集癖とそれを象徴したピカソの言葉、「手にはいったものを、棄てねばならぬ理由が何処にあるか」というのが印象に残っていたのだろうか。僕はこう書いていた。

自我論集

山地大樹

嘘は燃えない

嘘をゴミ箱に捨て続けたら、ゴミ箱がいっぱいになってしまった。使い捨てのティッシュと破り捨てられた履歴書に混ざった嘘は、居心地わるそうに震え続けていた。嘘は燃えないから、燃えないゴミの日に分別して出さなくてはならず、燃えるゴミの日の今日にのゴミとして出すことは社会的に許されていない。燃えないゴミの収集日は水曜日だから、それまで嘘を捨てるのを待たなくてはならない。しかしながら、嘘がゴミ箱に入ってる状態は気持ち悪く、水曜日はあまりに遠すぎると感じられたから、燃えるゴミの日にこっそり捨ててしまおうと、嘘の入ったゴミ袋を抱えて家の外に飛び出すと、ヒステリー特有の調子を持った声が聴こえてきた。

何をしているのかしら、あなた。嘘は燃えないわ。嘘を燃やしてはいけないの。燃えないごみの日に出しなさい。非常識は許されないわ。

正義感の声色

声の発信源である女性は、大きめの麦わら帽子を頭に載せて、身体のサイズに合わないワンピースを身に付けていたから、正義感が人一倍に強い人だということが、人生の統計から明らかである。とりわけ、耳ざわりな声色は正義感の象徴である。この声色を持つ女性が他人の話に耳を傾けているのを見たことがない。大抵の場合、自分の話に耳を傾けて、自分に話かけ続けるのである。面倒に巻き込まれた僕は、咄嗟に嘘を吐く。「えっ、燃えない嘘を燃やすと有害だと思われてますか? ご婦人、冗談がすぎますよ。いまどきなんでも燃えますよ。二ヶ月前から、嘘は燃えることになったことをご存じないのですか。回覧板をお読みにならなかったのですか。嘘は燃えるんです」。

燃える嘘

隣の家に住むこの女性は、みずからの無知に顔を赤らめてから、自分の家の玄関に戻って行った。僕はというと、嘘が燃えるという嘘がばれてしまう前に、手許のゴミ袋の結び目を緩めて、嘘が燃えるという嘘をそっとゴミ袋に滑りませてから、ゴミ袋をゴミ置き場へと放り投げ、鼠のように自宅へと駆けこんだ。自宅に帰った僕は、彼女の正義感という嘘を一緒に捨ててあげればよかったと後悔する。彼女の正義感はよく燃えるに違いない。あまりによく燃えるから、正義感の炎が世界を包みこんで、世界は灰になってしまうだろう。ところで、嘘の灰は燃えるのだろうか?

季山時代
2023.08.12