メリーゴーランドの断片
メリーゴーランドの断片
古い写真の回想
二〇二三年八月十五日。僕は相変わらず眠り続けて、抽斗のなかを整理する。ベンヤミンの幼年時代の回想を読んでいたから、懐かしい記憶を旅したくなったのだろう。興味深いのは、まわることが僕にとって特権的な意味を持つことである。そういえば、筒のための家を設計したときも、まわることに僕は固執していた。また、アジアのマレーシアのオランダ広場、そのなかのアジアの中国人街という入れ子構造が、メリーゴーランドと重なり合うのも興味深い。僕はこう書いていた。
山地大樹
古びたメリーゴーランドの写真
古びたメリーゴーランドの写真が抽斗からこぼれ落ちてきた。そういえば、前々からずっと考えていた。あの浪漫的な幻想がどこから湧き立つのか、不思議でたまらなかった。馬が馬を追いかけて、照明が溶けて一つになるその瞬間が、たまらなく愛おしくて。外側の景色が繰り返されて、手を振る人と何度も出会う体験が、たまらなく愛おしくて。止まらないでおくれ、このままずうっと、そう願っても、馬は足を止めてしまって。夢の入り口が閉ざされる。人間を旅させるメリーゴーランド、それは世界を変様させる浪漫的なおもちゃである。「まわる」という体験によって、バラバラだった現実は一繋がりの夢の世界になり、それと同時に、統一された夢の世界はバラバラに崩れた現実の世界になる。夢と現実はまわるという体験によって、グラデーショナルに接続されるということである。
©季山時代《光の総体》2023メリーゴーランドが総体になるとき
壊れた光が、壊れた音が、一つの総体になるのは、馬がまわるという体験が膨らんで、あらゆるものが溶けてゆくその瞬間が続くかぎりである。馬が止まるなら、独楽のような生命は死んで倒れてしまうだろう。夢と現実が接続するのは、まわっているときだけだから、僕はこう願い続けなくてはならない。まわれ、まわれ、まわれ、まわれ、まわれ、このままずうっとまわっておくれ。ところで、古びたメリーゴーランドの写真の裏側には、一枚のポストカードが貼られていた。マレーシアのマラッカのオランダ広場の横、不思議な中国人街に佇む異国風遊園地の匂いがした。あれは懐かしい湿った夏。夜のネオン街、まわり出したメリーゴーランドは現実よりも輝いて見えた。
©季山時代《青い夢》2023季山時代
2023.08.15
