水筒の世界性
水筒の世界性
水筒を忘れる
二〇二三年八月十七日。僕は、愛用の無印の水筒を職場に忘れてしまう。僕は、水筒のなかに何かを感じたようである。文章から想起されるのは、ヴェネチアの美術館で見た、コップのスケッチを描き続けるアーティストである。毎日一つ描かれるコップのスケッチが、三百六十五日分並べられてた展示は、現象学の射影の概念を証明しているかのごとく奇妙であった。日本の浮世絵から影響を受けたモネ、モネの連作の影響を受けたウォーホル、その延長線にあるかのような作品であった。その一連のコップのスッチの展示が、職場に置いてけぼりの水筒と結びついたのだろう。ちなみに、僕はハイデッガーの『存在と時間』を読んでいたことを付け加えてもよいかもしれない。僕はこう書いていた。
山地大樹
水筒を忘れて
職場に水筒を忘れてきた。物語のはじまりにはいつも忘れものがあることは、オトギバナシの常套手段であるから、僕の身体に住まうお姫様が新しい物語を期待してしまうは可笑しなことではないだろう。いかなるオトギバナシも辞めること、という有名な哲学者の文章を読んだばかりだからこそ、オトギバナシが気になっている。そんなことを考えながら、職場にポツリと佇む水筒のことを想っていると、水筒のなかの水が腐ってしまうのではないかという不安や、水筒のなかの水を誰かに飲まれたらどうしようという不安が溢れてくる。水筒のなかには、僕が口を付けた水が残っている。水が腐って死んでゆくこと、腐った水がひとを死なせること。このあたりに死の匂いがこもっている。
人間は水筒である
水筒を想うと、僕の身体のなかにも水が溢れいることが不思議に感じてくる。人間の身体の六割を水が占めているというが、ちょうど水筒のなかに残された水の量にも似ている。もし仮に人間が水筒だとすれば、世界中に生きている人間のなかに溜められている水はどれ位になるのだろうか。六十キログラムという平均体重の六割は三十六キログラムだから、三十六キログラムに世界人口の八十億人をかけると、二千八百八十億キログラムの水量になる。想像すらできない莫大な量、多分、とても大きな湖や川ができるに違いない。こんなことを考えると奇妙な気持ちになる。目の前のコップ一杯が、大きな湖につながっているような気持ちである。
大洋感情と水筒
みずからの身体という水筒のなかの水。これは間主観性の源泉になるのかもしれない。ロマン・ロランが大洋感情と述べていたような感覚、胎児が子宮のなかにいた安心感、あるいは温泉に浸かる仕事終わりのくつろぎ、水というのは共有しやすいイメージなのは間違いないだろうが、ここで興味深いのは六割の水の入った水筒という比喩である。水で満たされているわけではなく、空っぽなわけでもなく、あらゆる人間が六割程度の水を持っていること。そして、目の前にあるのコップの水を飲むことで水分量が増えたり、自宅のトイレで排尿することで水分量が減ったりしながら、身体の水分量の増減の揺らぎのなかで、なんとなく似通った水分量を保ち続けていること。ここに、新しい哲学が生まれる気配を感じる。
水筒内存在
身体における六割の水と四割の空洞。水筒としての人間のあり方。これを水筒内存在とでも呼ぶことにしよう。水筒内存在は、六割の水が満たされているから、器官なき身体としての皮膚を持つだけではない。水筒内存在は、四割の水が満たされているから、すべてが肉の厚みで満たされているわけではない。あるいは、五割という二つに分割できるような切りのいい数字でもなく、増減の揺らぎを失うことはない。もしその揺らぎが暴走するならば、あるひとは水中毒になり、あるひとは脱水症状になるだろう。また、人間同士でお互いの水を注ぎ合うことも考えられるだろうし、身体の水を自然界の花に注いでやることもできる。お酒ばかり飲むひとは、水の循環がはやいのだろう。こんなことを考えながら、水筒を取りに職場に戻らなくてはならない。
季山時代
2023.08.17
