楕円形の観覧車
楕円形の観覧車
対モナドの間主観性的共同体
二〇二三年八月二十二日。僕はピアノを弾いているなかで、楕円形の観覧車という一つの言葉を思いついたようである。フッサールの間主観性の現象学のモナド論に共感しながら、そのモナドの単一性性を批判しなければならないと考えて、単一なモナドに対して吉本隆明の対幻想を結びつけることを思いついた僕は、対モナドのようなものを朧げに想定しながら、対モナド達が予定調和するようなイメージを探している中途であり、そこに楕円形の観覧車という比喩がちょうど当てはまって興奮していたのだろう。この幻想のなかには花田清輝の楕円幻想も溶解しているのかもしれない。僕はこう書いていた。
山地大樹
楕円形の観覧車の幻想
楕円形の観覧車という一つの言葉が、突如として頭のなかに浮上してきた。この言葉が生起させるイメージはとても豊潤であり、甘美なイデアに収斂してゆく。この言葉が生起させるのは、少しだけ膨らんだ円である。それは、浪漫的で優美に漂いながら、意味が固定化されることもなくまわり続ける。まわるという点において、楕円形の観覧車は一つの中心のイメージを与えるが、楕円形という点において、楕円形の観覧車は二つの中心のイメージを与える。それでいて、籠には各々のカップルが乗っている。一つの籠をモナドとするならば、モナドはカップルの対空間として自足しているのだが、籠はまわりながら一つの調和を形成する。楕円形の観覧車、なんと美しい比喩なのだろう。
楕円形の観覧車の詩
なんか ちょっと 消えそうな気がするんだ
なんか ちょっと 飛べそうな気がするんだ
世界が 透明になって
世界が 溶けていって
世界が かすんでゆく
楕円形の 観覧車が まわって
一番 高い所で 止まって
君と 二人 だけの 世界
季山時代
2023.08.22


