電車で席を譲る理由
電車で席を譲る理由
座席を譲ることについて
二〇二三年八月二十三日。僕は疲労困憊のなか、夜の電車の座席に座っていた。電車において、座席を譲ろうと考えたのだが、二回にわたって断られたことで考えることがあったようだ。とりわけ多木浩二の家具の分析を読んでいたこともあり、家具の政治学などが念頭に置かれていたのだろう。人間は考える葦であると言うパスカルの言葉が執拗に意識されているのも興味深い。僕はこう書いていた。
山地大樹
人間は揺られる葦である
夜の電車の座席にて本を読んでいると、扉が開き、一人の酔っ払いの男が車両に乗りこんできた。車内は混雑していなかったが、座席はすべて埋まっていたから、扉の前に設けられた広けた空間で、男は苦しそうに手摺りにもたれかかっていた。手摺りに体重を預けているとはいえ、足元はおぼつかない様子で、電車が揺れるの同じ方向に揺られ、いまにも倒れそうな葦さながら、ふらふら、ふらふら、と揺れ続けていた。僕は、こんなにも弱い人間がいることに驚き、赤ちゃんを見るような眼で眺めていたが、しばらくして席を譲ることを決心した。
揺られる葦の強さ
男に席を譲ろうと、革鞄に本をしまって席を立ちあがり、男の方向へ歩みを進めて、軽く肩を叩いて声をかける。どうぞ座ってください。男はこう応える。
あっ、大丈夫っす、ありがとうございまっす。
男は、焦点の合わない眼でこちらを見て返事をして、また揺られる葦へと戻って行った。断られると思っていなかった僕はとても驚くと同時に、こんな弱々しい葦が自分の力で立とうとしていることに感動を覚えた。いまにも眠りそうな、いまにも吐きそうな、いまにも倒れそうな、そんな弱々しい一人の人間が、藁にすがるかのように手摺りにすがって、なんとか直立するべく苦心している。この目の前の風景こそ、僕達が忘れてしまった大切なものなのではないだろうか。この男は考える葦ではないが、勇敢に一人で立とうとしている。
ポツリと空いた椅子
僕は座席に戻るわけにもいかない。というのは、贈与を試みたものを突き返されたとき、贈与した当のものを素直に懐にしまうことには抵抗があるのだから。いま、座席はぽつりと空いている。僕を失った座席は、葦にすら拒絶されて寂しそうに震えている。この可哀想な椅子に、誰かを座らせなくてはならない。僕は、酔っぱらった男の前にいた仕事帰りの女性に声をかけることにした。この女性は、椅子の贈与劇の一部始終を見届けていたから、きっと座ってくれるに違いない。この綺麗な女性は、赤いピンヒールを履いているからきっと疲れているに違いない。そして、寂しそうに震えた椅子に愛で包みこんで、その震えを止めてくれるに違いない。僕は、女性の方を向いて喉を震わせる。 あの、座りますか? 女性は聖母のような笑顔でこう応える。
ありがとう、大丈夫よ。
凛と立つ人々
外観で判断するならば、この女性は娼婦に近い職業なのだろう。ピンヒールでお洒落をして仕事にむかい、少しはだけた洋服から色白な肌をのぞかせている。この仕事終わりの女性の顔は疲れているが、それでも座らない強さを兼ね備えていている。なんて魅力的な女性だろう。今日、僕は二度ふられた。一度目は酔っぱらった男に、二度目は綺麗な女性に。忘れてしまいがちだが、世のなかには凛と立つ人たちが数多くいる。僕達は、それに気がつかないだけなのかもしれない。ここまで書いて、僕は席を譲ることに気恥ずかしさを感じはじめている。席を譲るとは、自分より弱い相手だと決めつけて、優しさを押し付ける行為なのではないか、と思い至ったからである。
電車の座席を譲ること、その権力
僕は、みずからの優しさから席を譲ったつもりでいたが、そうではなく、誰かに席を譲ることで優位に立ちたかったのかもしれない。優位という熟語に、優しいという漢字が含まれていることを考えると、優しさとは強い者から弱い者に押しつけるものだと分かる。なぜ座席に座っただけで優位な立場になるのだろうか。記憶が正しければ、椅子に座ることは栄光と威厳に満ちた行為であったと指摘したのは、カネッティだったと思う。椅子に座ること、それは同時に椅子に座っていない人々をつくり出す。すなわち、誰かが椅子に座ることは、座っていない者を立たせるということを意味する。しかも椅子は持続する。それゆえ、王が椅子に座るのではなく、椅子に座るから王になるという構造が定着しはじめる。電車の座席に座るだけで、人は王になれるということである。電車の座席は、たとえ誰が座ったとしても、座った者を優位な立場にしてしまう。
電車の座席を譲ることは偽善だろうか
電車で座席に座ることは、座席に座らない人々をつくり出すという奴隷制と同様の構造を持っている。問題は、僕の持っている権力が、座席を確保しているという、ただそれだけの事実に由来することである。僕は何者でもない無個性な人間だが、座席に座るだけで王になることができる。そのうえ、混雑する前に電車に乗りこんで座れたという、努力もなくして手に入れた権力を振りかざして、王の座を誰かに譲りわたそうと考えたのである。王みずから奴隷になること、奴隷を王座に座らせる無責任な態度、この気持ち悪さはいただけない。だから、僕のたどり着いた結論はこうである。座席に座って王になったなら、できることを精一杯やること、これである。
電車の座席で可能なことを精一杯やる
第一に、座席に座ったという単なる偶然によって、努力なしに権力を手に入れたことを自覚すること。第二に、その権力の振りかざすことなく、その座席のうえだからこそ可能な努力を精一杯やること。たとえば、親の権威によって偶然に権力をもった王様が、ゲームばかりに夢中になるならば国は滅びるだろう。それでいて、この王座をあなたに譲りますよ、など言い出したら始末に負えない。だから、もし電車の座席に座ったならば、国がよくなるように精一杯に努力しなければならない。もし努力できないならば、そして泥々した権力構造に巻きこまれたくないならば、はじめから座らないのが一番である。逃げろや逃げろ、どこまでもという態度も、貫きとおせば格好いいものである。酔っ払いの男も、娼婦の女も、座るの拒否した点において、何も考えずに座っている僕よりも数倍は格好いい。
優先席の誕生
最後に、優先席について考察しておくのは無駄ではないだろう。基本的に、権力構造がある場所には、その抜道があらかじめ用意されているからである。社会における精神病院のように、電車における優先席が用意され、弱者は優先席に投げこまれる。優先席によって、いわゆる正常な席が生まれて、群衆は正常な席に安心して座れるようになる。だから、優先席にいわゆる正常なひとが座ると、人々は怒り狂う。難しい問題である。また考えなくてならない。最後に、僕が思うことを簡単にまとめるなら、意地を張って座らないよりも、座りながら精一杯努力している人が格好いいし、そうした格好よい背中を見て育った子供たちは大きくなって、より鮮やかな未来を描くに違いないということである。
※この考察は遊びです、高齢者や妊婦さんなど、素直に席を譲りましょう。
季山時代
2023.08.23

