Archive Walker

電車で席を譲る理由 反革命的革命宣言他

日々の記録

依頼者様へ。お世話になっております。二〇二三年度、八月二十三日から八月二十七日までの調査報告になります。ご参考いただければと存じます。今後ともよろしくお願い申し上げます。

二〇二三年八月二十三日

電車で席を譲る理由

座席を譲ることについて

二〇二三年八月二十三日。僕は疲労困憊のなか、夜の電車の座席に座っていた。電車において、座席を譲ろうと考えたのだが、二回にわたって断られたことで考えることがあったようだ。とりわけ多木浩二の家具の分析を読んでいたこともあり、家具の政治学などが念頭に置かれていたのだろう。人間は考える葦であると言うパスカルの言葉が執拗に意識されているのも興味深い。僕はこう書いていた。

「もの」の詩学

パンせ

山地大樹

人間は揺られる葦である

夜の電車の座席にて本を読んでいると、扉が開き、一人の酔っ払いの男が車両に乗りこんできた。車内は混雑していなかったが、座席はすべて埋まっていたから、扉の前に設けられた広けた空間で、男は苦しそうに手摺りにもたれかかっていた。手摺りに体重を預けているとはいえ、足元はおぼつかない様子で、電車が揺れるの同じ方向に揺られ、いまにも倒れそうな葦さながら、ふらふら、ふらふら、と揺れ続けていた。僕は、こんなにも弱い人間がいることに驚き、赤ちゃんを見るような眼で眺めていたが、しばらくして席を譲ることを決心した。

揺られる葦の強さ

男に席を譲ろうと、革鞄に本をしまって席を立ちあがり、男の方向へ歩みを進めて、軽く肩を叩いて声をかける。どうぞ座ってください。男はこう応える。

あっ、大丈夫っす、ありがとうございまっす。

男は、焦点の合わない眼でこちらを見て返事をして、また揺られる葦へと戻って行った。断られると思っていなかった僕はとても驚くと同時に、こんな弱々しい葦が自分の力で立とうとしていることに感動を覚えた。いまにも眠りそうな、いまにも吐きそうな、いまにも倒れそうな、そんな弱々しい一人の人間が、藁にすがるかのように手摺りにすがって、なんとか直立するべく苦心している。この目の前の風景こそ、僕達が忘れてしまった大切なものなのではないだろうか。この男は考える葦ではないが、勇敢に一人で立とうとしている。

ポツリと空いた椅子

僕は座席に戻るわけにもいかない。というのは、贈与を試みたものを突き返されたとき、贈与した当のものを素直に懐にしまうことには抵抗があるのだから。いま、座席はぽつりと空いている。僕を失った座席は、葦にすら拒絶されて寂しそうに震えている。この可哀想な椅子に、誰かを座らせなくてはならない。僕は、酔っぱらった男の前にいた仕事帰りの女性に声をかけることにした。この女性は、椅子の贈与劇の一部始終を見届けていたから、きっと座ってくれるに違いない。この綺麗な女性は、赤いピンヒールを履いているからきっと疲れているに違いない。そして、寂しそうに震えた椅子に愛で包みこんで、その震えを止めてくれるに違いない。僕は、女性の方を向いて喉を震わせる。 あの、座りますか? 女性は聖母のような笑顔でこう応える。

ありがとう、大丈夫よ。

凛と立つ人々

外観で判断するならば、この女性は娼婦に近い職業なのだろう。ピンヒールでお洒落をして仕事にむかい、少しはだけた洋服から色白な肌をのぞかせている。この仕事終わりの女性の顔は疲れているが、それでも座らない強さを兼ね備えていている。なんて魅力的な女性だろう。今日、僕は二度ふられた。一度目は酔っぱらった男に、二度目は綺麗な女性に。忘れてしまいがちだが、世のなかには凛と立つ人たちが数多くいる。僕達は、それに気がつかないだけなのかもしれない。ここまで書いて、僕は席を譲ることに気恥ずかしさを感じはじめている。席を譲るとは、自分より弱い相手だと決めつけて、優しさを押し付ける行為なのではないか、と思い至ったからである。

電車の座席を譲ること、その権力

僕は、みずからの優しさから席を譲ったつもりでいたが、そうではなく、誰かに席を譲ることで優位に立ちたかったのかもしれない。優位という熟語に、優しいという漢字が含まれていることを考えると、優しさとは強い者から弱い者に押しつけるものだと分かる。なぜ座席に座っただけで優位な立場になるのだろうか。記憶が正しければ、椅子に座ることは栄光と威厳に満ちた行為であったと指摘したのは、カネッティだったと思う。椅子に座ること、それは同時に椅子に座っていない人々をつくり出す。すなわち、誰かが椅子に座ることは、座っていない者を立たせるということを意味する。しかも椅子は持続する。それゆえ、王が椅子に座るのではなく、椅子に座るから王になるという構造が定着しはじめる。電車の座席に座るだけで、人は王になれるということである。電車の座席は、たとえ誰が座ったとしても、座った者を優位な立場にしてしまう。

電車の座席を譲ることは偽善だろうか

電車で座席に座ることは、座席に座らない人々をつくり出すという奴隷制と同様の構造を持っている。問題は、僕の持っている権力が、座席を確保しているという、ただそれだけの事実に由来することである。僕は何者でもない無個性な人間だが、座席に座るだけで王になることができる。そのうえ、混雑する前に電車に乗りこんで座れたという、努力もなくして手に入れた権力を振りかざして、王の座を誰かに譲りわたそうと考えたのである。王みずから奴隷になること、奴隷を王座に座らせる無責任な態度、この気持ち悪さはいただけない。だから、僕のたどり着いた結論はこうである。座席に座って王になったなら、できることを精一杯やること、これである。

電車の座席で可能なことを精一杯やる

第一に、座席に座ったという単なる偶然によって、努力なしに権力を手に入れたことを自覚すること。第二に、その権力の振りかざすことなく、その座席のうえだからこそ可能な努力を精一杯やること。たとえば、親の権威によって偶然に権力をもった王様が、ゲームばかりに夢中になるならば国は滅びるだろう。それでいて、この王座をあなたに譲りますよ、など言い出したら始末に負えない。だから、もし電車の座席に座ったならば、国がよくなるように精一杯に努力しなければならない。もし努力できないならば、そして泥々した権力構造に巻きこまれたくないならば、はじめから座らないのが一番である。逃げろや逃げろ、どこまでもという態度も、貫きとおせば格好いいものである。酔っ払いの男も、娼婦の女も、座るの拒否した点において、何も考えずに座っている僕よりも数倍は格好いい。

優先席の誕生

最後に、優先席について考察しておくのは無駄ではないだろう。基本的に、権力構造がある場所には、その抜道があらかじめ用意されているからである。社会における精神病院のように、電車における優先席が用意され、弱者は優先席に投げこまれる。優先席によって、いわゆる正常な席が生まれて、群衆は正常な席に安心して座れるようになる。だから、優先席にいわゆる正常なひとが座ると、人々は怒り狂う。難しい問題である。また考えなくてならない。最後に、僕が思うことを簡単にまとめるなら、意地を張って座らないよりも、座りながら精一杯努力している人が格好いいし、そうした格好よい背中を見て育った子供たちは大きくなって、より鮮やかな未来を描くに違いないということである。

※この考察は遊びです、高齢者や妊婦さんなど、素直に席を譲りましょう。

季山時代
2023.08.23

二〇二三年八月二十四日

反革命的革命宣言

徐々に自殺すること

二〇二三年八月二十四日。僕は異端者が書きあげた詩を読み、そのなかの「最初は試作だった。俺は沈黙を書き、夜を書き、描き出す術もないものを控えた」という箇所にマーカーを引き、その横に、「一度に自殺することでなく、徐々に自殺すること」と小さく書きこんでいた。多分、一度に自殺するならば、輪郭すら残らず消滅するが、徐々に自殺するなならば、輪郭だけ残して震えながら消失する。そんなイメージを僕は抱いているのだろう。僕はこう書いていた。

地獄の季節

山地大樹

反革命的革命宣言

革命の匂いがしたから、
この鼻を切り落とすことにした
革命の声が聴こえたから、
この耳を切り落とすことにした
革命の味がしたから、
この舌を切り落とすことにした
革命の手触りを感じたから、
この腕を切り落とすことにした
革命の振動が伝わるから、
この足を切り落とすことにした
革命の欲動が押し寄せるから、
このペニスを切り落とすことにした
革命の風を感じたから、
この身体を切り落とすことにした
残ったものはというと、
空っぽの閉じられた領域のなか
ぽつりと佇む虚無ひとつ
切断の果てのユートピア
ここからすべてをはじめよう

季山時代
2023.08.24

二〇二三年八月二十五日

本当の願い事

星に願いを

二〇二三年八月二十五日。僕はフランス詩人の星空のような詩を読み、感銘を受けていた。早速、真似事をはじめるのは制作にたずさわる人間の性だろう。僕は、とりあえず詩をつくりながら、その効果を記述してみている。僕はこう書いていた。

マラルメ全集

山地大樹

本当の願い事を僕にください

本当の願い事を僕にください
眺めるばかりで住まうことが失われた現代
願い事は美術館のガラスケースの向こう側
触れられない美術品のように眠りについた
いくら手を伸ばしても
到達できない遠くの客体
手を伸ばしたら届きそうな
美しく輝くビー玉のような
繊細な息遣いを感じさせる
隣を駆ける流れ星
本当の願い事を僕にください腕のうえ
うたた寝した願い事が
恋しくて、恋しくて
空のうえ
もう会えない願い事が
悲しくて、悲しくて
消えてしまいそう

本当の願い事を僕にください©季山時代《本当の願い事を僕にください》2023

季山時代

詩句の効果の記述

よく分からぬままに、マラルメらしきものを日本語で書いてみるならば、フランス語には見られない効果が見出せるに違いない。第一に時間軸。左上から右下に目線が流れてゆくのが自然であり、過去から未来への時間の流れを意識させる一方、右上から左下に流れてゆく目線は不自然であり、その方向は未来から過去へ遡行する印象を与える。その二重の時間軸が交錯するとき、宇宙的なものが立ちのぼる。第二に修飾関係。「手を伸ばしたら届きそうな」「美しく輝くビー玉のような」「繊細な息遣いを感じさせる」。これらの三つの句が、「隣を駆ける流れ星」に等価にかけられる。これは、左上から右下に流れる時間が常に働いているからである。第三に選択。「腕のうえ」「空のうえ」のどちらかのブロックを読みながら選ばなくてはならない。これは、文章のブロックが横に並列されるならば、どちらかを選択することを強要するということだろう。マラルメは建築のような詩をめざしたが、これは明らかに建築である。読者の内的時間が問題なのだろうか。

季山時代
2023.08.25

二〇二三年八月二十六日

タナトスの涙

知らないひとの自殺と知ってるひとの涙

二〇二三年八月二十六日。僕は河川敷で花火でもしたいと空想しながら、いつも通りの朝をはじめていた。なんてことない日常であり、その数日前のある有名人が自殺したことなど知る余地もなかった。夜、知人からの電話に出た僕は、有名人の自殺を知ると同時に、知人がその有名人をとても愛していたことを知った。僕は、いつも抑圧するようにしている死の問題が噴出したのか、動揺していたようである。僕はこう書いていた。

山地大樹

タナトスの涙

知人の愛する人が自殺したことを知った。僕は自殺した人を知らなかったが、床が水浸しになるほど泣いている知人を見た。おさえても、おさえても、決して止まらない涙が美しくて、僕は僕がいなくなってしまう気がした。生か死か、僕は選ばなくてはならない、どちらかを。

殺してくれ、待て、殺さないでくれ、いや、やっぱり殺してくれ、死にたい、死にたい、待て、やっぱり死なない、生きてやる、生きてやるんだ、等々。

愛してくれ、待て、愛さないでくれ、いや、やっぱり愛してくれ、恋したい、恋したい、待て、やっぱり恋しない、愛してやる、愛してやるんだ、等々。

季山時代
2023.08.26

二〇二三年八月二十七日

かえるの唄とかめの唄

ヌルヌルとカラカラの弁証法

二〇二三年八月二十七日。僕は友人から送られてきたアザラシの写真を眺めていた。四匹のアザラシが浮かべられた筏のうえに横たわる写真である。そのなかの一匹は、横になって身体を丸めているのだが、ずっと見ているうちに徐々にカエルの脚に見えてきたらしく、僕はその写真を見ながら、「かえる、あざらし、そして、かめ」と手元の紙に鉛筆を走らせていた。僕が書いた文章をみると、ヌルヌルした湿ったものとカラカラした乾いたものの弁証法を考えているようだ。それが、女性器と男性器の比喩なのかは分からないが、亀が男性器の比喩なのは明らかだろう。僕はこう書いていた。

山地大樹

かえるの唄

アマガエルさん、こんにちは
僕はあなたのなかに入りたいんです
そとはヌメヌメだけど
なかはさぞかし渇いているんでしょう?
ひっくり返したいんです、全部
渇いた僕を潤して

かめの唄

ミドリガメさん、こんばんは
僕はあなたのそとに出たいんです
なかはヌメヌメだけど
そとはさぞかし渇いているんでしょう?
ひっくり返したいんです、全部
潤んだ僕を渇かして

季山時代
2023.08.27