Archive Walker

ブランコの現象学 嘘からはじまる誠実他

日々の記録

依頼者様へ。お世話になっております。二〇二三年度、八月十八日から八月二十二日までの調査報告になります。ご参考いただければと存じます。今後ともよろしくお願い申し上げます。

二〇二三年八月十八日

起源としての駱駝

駱駝と円環

二〇二三年八月十八日。僕は一枚のイラストを描いていた。それは明らかにおっぱいであるが、それ以上の円環を持っているものとして捉えられている。永劫回帰の思想とおっぱいの関係を、駱駝をつうじて築きあげようと模索しているのだろう。僕はこう書いていた。

ツァラトゥストラ

山地大樹

駱駝とおっぱい

駱駝のこぶはおっぱいである。砂漠のなか、死なずに生きるためには、栄養豊富なこぶが求められる。駱駝のこぶは重い荷物かもしれないが、それは自分のために泥臭く蓄えられたものである。その一方、というより自分のために貯蓄したものだからこそ、他者に栄養を分け与えることもできる。だから、獅子は駱駝に及ばないし、幼子を育てあげることもできる。駱駝ははじまりにして、本質的な生き物である。

おっぱいの絵画作品©季山時代《おっぱいI》2023

おっぱいの絵画作品©季山時代《おっぱいII》2023

季山時代
2023.08.18

二〇二三年八月十九日

嘘からはじまる誠実

神経症的誠実

二〇二三年八月十八日。僕は壊れたイアーマフを返品するべく、嘘を付き、その嘘が誠実を生み出したという奇妙な事態に困惑していたようである。とりわけ、その神経症的な悩みは、ロシアの有名な小説のあらすじに似ていなくもない。ともかく、金の斧と銀の斧の物語を肌で感じた僕は、いろいろなことを考えているようだった。僕はこう書いていた。

罪と罰

山地大樹

壊れたイアーマフの保証書

誠実な大人になろうと、みずからに約束していたのにもかかわらず、今日、一つの嘘を付いてしまったことを告白しなければなりません。また、嘘を付いたというだけでなく、嘘を付いてしばらくして、罪意識に押し潰されそうになり、本当のことを言ってしまった自分の弱さが恥ずかしくて仕方ありません。悪魔をみずからに取り憑かせながら、みずから悪魔を追い払うという自作自演を認めて、もう二度とこのようなことが起こらないように反省しながら、事の顛末をここに記そうと思います。事件が発生したのは、先日の朝のことです。僕は、愛用していたイアーマフを不注意から床に落としてしまい、その結果、イアーマフは真っ二つに割れて、二度と原型を取り戻せないほどに壊れてしまいました。購入して一年以内の商品だったため、イアーマフは保証期間内だったのですが、保証書の説明をよく眺めてみると、赤く小さな文字でこう書かれていました。

※落下による故障は保証期間内でも対応しておりません。

イアーマフは保証期間内であるとはいえ、落下によるものだから、保証は効かないことは明らかでした。そう、嘘を付かない限りにおいて。

嘘の返品理由と文章の強張り

所持金をほとんど失って途方に暮れていた僕は、というのは嘘で、所持金をほとんど失って途方に暮れていたという言い訳をつくりあげた弱い僕は、新しいイヤーマフを無料で手に入れようと悪巧みを考えて、あろうことか、嘘のメールを送ることを決めたのです。

御社の製品『X』というイアーマフを○年○月○日にYというサイトで購入して使用しておりましたが、先日の使用中、左右のイヤーカップ部分が割れてしまうという故障が発生しました。普段から重宝させていただいているため、自然消耗かもしれませんが、強い衝撃は加えてないように思います。一年間の保証期間となっているので、もし交換など可能であればお願いしたく、メールさせていただきました。お忙しいところ申し訳ありませんが、故障した写真を添付いたしますので、ご確認よろしくお願いいたします。なお、下記がYというサイトでの購入情報になります。等々。

いま見返すと恥ずかしい文面です。丁寧さの裏側に透けてみえる下心が、吐き気を誘うほど厭らしい臭気を放っています。この文面は根元から腐っているのが明らかでした。嘘をついている渦中にいる僕は、自分を守るための嘘を付くとき、いくら善人を装っても厭らしさが漏れ出してしまう単純な事実を忘れていたのです。とりわけ「自然消耗かもしれませんが」とか、「強い衝撃は加えてないように思います」など、普段だったら挿入するはずのない無駄な文章が散りばめられ、ミステリー映画なら犯人以外の何者でもないことが明白です。文章が強張って優雅さを失った結果、可笑しさが溢れ出しているのです。当然、その嘘は完璧に見ぬかれていたようで、このような返信が届きました。

お世話になります。カスタマーセンターのZと申します。この度はお問い合わせ頂き有難うございます。また、ご購入の製品につきましてご不便をお掛けし申し訳ございません。問い合わせの件につきまして、ご状況の詳細を確認させて頂きたく存じますが、製品本体の落下や強い衝撃等なく、急にイヤーカップ部分が外れたという事でしょうか? また、商品の開梱直後は特に問題無く使用できており、急にご連絡のような症状になったという事でしょうか? 本件につきまして、ご状況の確認次第早急にご対応をさせて頂ければと存じますのでお手数をお掛けし恐れ入りますが上記内容に関しましてご確認、ご返事を頂けますと幸いです。ご不便をお掛けし大変申し訳ございませんが、何卒ご確認の程宜しくお願い致します。

へ、へ、へ! 響きわたる呼び声

製品が落下で故障したことは見透かされていること、こちらに非があるのに謝らせてしまったこと、相手の時間や心的労力を奪ってしまったこと、そのすべてに恥ずかしくなりました。僕は、正直に謝ることにしました、というのは嘘で、自分の気恥ずかしさに耐えられなくなって自白することにしたのです。なぜなら、ドストエフスキーの小説のあの笑い声が聞こえてきたからです。「へ、へ! へ、へ、へ!」。この脳内に響きわたる笑い声は、嘘をつくと必ず聴こえてきて、僕は鳥籠に閉じこめられた鳥のように、この声から逃げることが出来なくなるのです。

お世話になっております。早急な対応ありがとうございます。正直に申し上げますと、製品を落下させてしまいました。そこまで大きな落下ではなかったため、もし保証が効くのならば交換可能になるかと思い、連絡してしまいました。大変、申し訳ありません。この件ですが、御社の製品を再度購入することにいたしましたので、水に流していただければ幸いです。ご迷惑とお手数をおかけして申し訳ありません。また何かありましたら、よろしくお願い申し上げます。

誠実さが文体に現われているのが分かります。誠実になった途端、文章が綺麗になるのはなぜなのでしょうか。文体は書き手の顔であり、もっともよく澄んだ鏡だということです。文章の強張りは失われ、僕が嘘を告白して安心しているのも明らかです。罪を犯した者は、かえって監獄に入ったほうが安心するのです。そうでなくては、心のざわめきに押し潰されてしまうから。世のなかに自発的な囚人が多数いるのは、安心を求めるためにほかなりません。とはいえ、この話には続きがあるのです。このメールに対して、驚くような返信が届くからです。

金の斧と銀の斧、そして起源としての嘘

お世話になります。カスタマーセンターのZと申します。ご連絡頂き有難うございます。ご状況につきまして承知致しましたご不便をお掛けし大変申し訳ございません。大変恐れ入りますが、ご連絡の内容ですと、保証の対象外となってしまい、誠に恐れ入りますがご返金等の対象外となります。しかしながら、この度は折角商品をご購入頂いたという事もあり、今回に限り保証の対象とさせて頂ければと存じます。

この返信に驚いたことは言うまでもありません。結局のところ、イアーマフはピカピカの新品になって返ってきました。僕は、金の斧と銀の斧の童話を想い出しました。誠実になると得をするという教訓を教えてくれる童話です。ただ一つだけ恐ろしいのは、僕の物語のはじまりは嘘だということです。欲張りで嘘つきのきこりは、斧をわざと川に落としますが誰も拾ってくれませんでしたが、僕の場合、欲張りで嘘つきなのにもかかわらず、斧を拾ってもらうわけです。嘘からはじまる誠実は、果たして誠実なのでしょうか?そもそも、嘘なくして誠実などあり得るのでしょうか? 嘘をつかなければ何も始まらない。嘘は万物の起源なのかもしれません。最後に一言、嘘を付いて、ご迷惑おかけして大変申し訳ありませんでした。

季山時代
2023.08.19

二〇二三年八月二十日

ブランコの現象学

抽斗の整理と古びた写真

二〇二三年八月二十日。僕は、また抽斗のなかを整理していた。前回は抽斗のなかにメリーゴーランドの古びた写真を見つけたが、今回の整理では、一枚のブランコの写真が気になったようである。メリーゴーランドは完全な正円を描くが、ブランコは振り子の断片の円である。最近の僕は、遊具のなかに潜む円運動の軌跡に着目しているようである。メリーゴーランドにせよ、ブランコにせよ、シーソーにせよ、遊具は円運動をめざすものが多いのは偶然ではなく、なんらかの理由があることを記述したいのだろう。僕は、カフカのブランコ乗りの涙を想像して、その涙によってずぶ濡れになる天使を想像したのかもしれない。僕はこう書いていた。

ベンヤミンコレクション

山地大樹

ブランコの加速性

ブランコ。それは二つの項を往復する遊びである。ブランコの本質は、その加速性にある。車がアクセルを踏むことで大きく加速するのと同様、少しばかりの足の振り上げによって大きく加速する。ブランコは漕ぐという体験の加速装置であり、体験が膨らむことで、二つの項を往復するエネルギーが獲得される。たとえ漕ぐことをやめても、途端に止まるわけではなく、徐々にエネルギーの残り香が、ブランコを動かし続ける。

ブランコの人間性

ブランコ。それは人間と一体化する遊具であり、人間の匂いが常にこびりついている。人間に漕がれているブランコは生き生きしているが、人間が漕ぎ終わったブランコは疲労困憊している。人間が漕ぐことをせずブランコに腰掛けるならば、そこに哀愁が生まれる。漕がれないブランコは人間の生気を奪う、まるで幽霊のように。漕がれないブランコは宇宙と同様の静けさを持つ、まるで死体のように。ただ、死んだブランコは何度でも蘇る、水をやると元気になる植物のように。ブランコはミイラである。いつか一人で動き出すに違いない。

ブランコの円運動

ブランコ。それは未完成な円であり、ちぎれた円弧を振れている。ブランコは、完全なる円を求めてまわろうとする人間の欲望を表現している。ある者は立ち漕ぎをしてまでも、円を作り出そうとする。ある体験によって現象する正円を、その完全なる正円を頭に浮かべながら、その夢を追いかけて漕ぎ続ける。漕ぎはじめなければ、ブランコはぶら下がった直線でしかないのだから。

ブランコの両義性

ブランコ。それは主体と客体の構造連関の渦である。揺らすという身体的体験を媒介として、身体は揺らし、揺らされる。重力場のような逆説的な場所。たゆたう快楽は身体の深く底に内在化され、人間はついに自身の力によって無限にたゆたえる装置つくりだす。遊具との合体。そうして、揺らすことにによって揺らされる場所が形成される。それを揺らしているうちは、永遠に生きられるだろう。

夜のメリーゴーランド©季山時代《ブランコ》2023

季山時代

ブランコの詩

往復する、現実と幻を
往復する、物質と意識を
往復する、具象と抽象を
往復する、あちら側とこちら側を
ぶらぶら、ぶらぶら
反覆する、自己と他者を
反覆する、没入と解離を
反覆する、孤独と群衆を
反覆する、あちら側とこちら側を
ゆらゆら、ゆらゆら
たゆたう弁証法の蝶々

季山時代
2023.08.20

二〇二三年八月二十一日

ドーナツの穴の向こう側

穴のあいた円

二〇二三年八月二十一日。僕は奇妙な夢を見たようであった。重要なのは、ドーナツの比喩そのものというよりも、ブランコやおっぱいという円の現象学的イメージが連日にわたって押し寄せてきていることである。僕に現われてきた円は、バシュラールのような完全な正円の詩的イメージなどではなく、真ん中に穴があいているものだと考えられる。円の境界がひび割れているわけではなく、円の境界が綻びているわけではなく、円の真ん中に穴があいていること。僕の抱えている空虚を意味しているのだろうか。これは、いずれ考察しなければならないものである。僕はこう書いていた。

空間の詩学

山地大樹

ドーナツの花束

あるリアルな夢。両手いっぱいのドーナツを抱えた君が、代々木公園の入口で待っている。安いコーヒーを右手に、高いカフェラテを左手に、テイクアウトした飲物で両手の塞がった僕は、急ぎ足で代々木公園に向かっている。代々木体育館を抜け、歩道橋をわたって代々木公園の入口に付くけれど、君の姿は見当たらない。その代わり、身体より大きなドーナツの花束が、一束だけぽつり、石畳のうえに落ちているのを発見する。そうだ、ドーナツの花束のなかに君がいるに違いない。僕は、ドーナツの花束の向こうにいるはずの君を捜してみる。幾重に重なり合う薔薇の花弁のように重ねられたドーナツ、そのドーナツの穴から何度も向こう側を覗くのである。でも、君はいない。気がつくと、僕が持っていたコーヒーとカフェラテが溢れてしまって、幾つかのドーナツに染みこんでいる。コーヒーの染みたドーナツを食べてみると、とても甘くて、とても美味しくて、そのあまりに美味しさに君のことなど忘れてしまって、僕は夢中になってドーナツを貪り尽くす。ドーナツの花束は無残に散ってゆき、花束の跡にはなにも残らなかった。残ったのは、甘すぎるドーナツで麻痺した舌と、空っぽのコーヒーのカップだけである。

季山時代
2023.08.21

二〇二三年八月二十二日

楕円形の観覧車

対モナドの間主観性的共同体

二〇二三年八月二十二日。僕はピアノを弾いているなかで、楕円形の観覧車という一つの言葉を思いついたようである。フッサールの間主観性の現象学のモナド論に共感しながら、そのモナドの単一性性を批判しなければならないと考えて、単一なモナドに対して吉本隆明の対幻想を結びつけることを思いついた僕は、対モナドのようなものを朧げに想定しながら、対モナド達が予定調和するようなイメージを探している中途であり、そこに楕円形の観覧車という比喩がちょうど当てはまって興奮していたのだろう。この幻想のなかには花田清輝の楕円幻想も溶解しているのかもしれない。僕はこう書いていた。

間主観性の現象学

共同幻想論

復興期の精神

山地大樹

楕円形の観覧車の幻想

楕円形の観覧車という一つの言葉が、突如として頭のなかに浮上してきた。この言葉が生起させるイメージはとても豊潤であり、甘美なイデアに収斂してゆく。この言葉が生起させるのは、少しだけ膨らんだ円である。それは、浪漫的で優美に漂いながら、意味が固定化されることもなくまわり続ける。まわるという点において、楕円形の観覧車は一つの中心のイメージを与えるが、楕円形という点において、楕円形の観覧車は二つの中心のイメージを与える。それでいて、籠には各々のカップルが乗っている。一つの籠をモナドとするならば、モナドはカップルの対空間として自足しているのだが、籠はまわりながら一つの調和を形成する。楕円形の観覧車、なんと美しい比喩なのだろう。

楕円形の観覧車の詩

なんか ちょっと 消えそうな気がするんだ
なんか ちょっと 飛べそうな気がするんだ
世界が 透明になって
世界が 溶けていって
世界が かすんでゆく
楕円形の 観覧車が まわって
一番 高い所で 止まって
君と 二人 だけの 世界

季山時代
2023.08.22