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ファーストテイクの美術館学

二〇二三年九月六日

ファーストテイクの美術館学

ファーストテイクを考える

二〇二三年九月六日。僕はなんの変哲もない日常を歩いていた。情報にうとい僕は、ファーストテイクを友人の勧めで知ることになるのだが、これはのっぴきならない事態だと確信したようだ。《THE FIRST TAKE》が音楽界にもたらした事態は、《MOMA》が美術界にもたらしたことと同じなのかもしれない、という分析はあたっているのか分からない。僕はこう書いていた。

プリズメン

山地大樹

ファーストテイクとアダルトビデオ

友人の彼に日本酒を四杯ほど飲ませると、彼はこう熱弁しはじめた。「ファーストテイクはアダルトビデオみたいで気持ち悪い。冒頭の軽いインタビューがセクシー女優の事後報告のように見えるし、一発撮りという仕掛けもモザイクなしの無修正ような印象を与える。また、マイクが置かれただけの白い空間のわざとらしい雰囲気も、大人のおもちゃが不自然に置かれた白い部屋のようだし、なによりスマホ越しにプレイを覗いている背徳感もある。どこか恥ずかしい気持ちになるんだ。この恥ずかしさは射精なくして解消できない。だから、ファーストテイクを見たあと、アダルトビデオを見てしまうんだ。この気持ち、君なら分かると信じているよ。分かると言ってくれ」。なるほど、彼が言いたいことがなんとなく分かるのは、僕が美術館に感じている恥ずかしさのような感情とまったく同様だからである。このあたりを考察してみると、興味深いものが見つかるかもしれない。

ヴァレリー派?プルースト派?それともアドルノ派?

参考になるのは、『プリズメン』というアドルノの著作に所収された「ヴァレリー・プルースト・美術館」という論考である。この論考を端的にまとめるならば、美術館を死んでしまった芸術作品を安置する場所と考えるヴァレリー派と、美術館をそこから生がはじまる場所と考えるプルースト派、両者の対照的な態度が描かれるものである。ヴァレリー派が作品が誕生する場所に宿る《第一の生》を大事にする一方で、プルースト派は美術館のなかでの作品の死を前提に、そこからはじまる《第二の生》を考えている。アドルノは、ベンヤミン的な遊歩者の立場からプルースト派に乗っかりながら、芸術作品を血がにじむほどのっぴきならないものとして受け取る態度を提案している。具体的にはこうである。

ステッキと傘といっしょにナイーヴさの残りも外であずけてしまい、自分が何を望んでいるかをよく心得、二枚か三枚の絵を自分のために選び出し、それがほんとうの偶像でもあるかのような集中ぶりでその前にたたずみ続ける、そうした人だけが、ヴァレリーが診断をくだしたあの弊害から身を守れるのである」。なるほど、美術館の封鎖を訴えても仕方ないし、そんなことを要望するのも馬鹿げている。そうではなくて、美術館という制度なかに飛びこみながら、死んだ美術品を生きている偶像かのように思いこんで、その美術品のまえに滞留して凝視を続けてみるらば、このとき初めて見えてくるものがある。ヴァレリー派にとって作品が生まれるアトリエが重要であり、プルースト派にとって作品が生まれる美術館が重要であったが、アドルノ派の提案は美術館をアトリエにしてしまうのである。アドルノの論考をこんな風に解釈しながら、ファーストテイクについて考えてみてはどうだろう。

美術館としての情報空間

ファーストテイクは新型コロナウイルスが蔓延した時期に誕生した。エクリチュールに対するパロールの特権性を素直に受け容れるならば、アーティストにとって音楽が生まれるアトリエはライブ会場となるだろう。音楽作品の《第一の生》はライブ会場で授けられる。しかしながら、ライブ会場がコロナウイルスによって断罪されたことも相まって、ヴァレリー的なアトリエの特権性は完全に廃絶されてしまう。すなわち、アーティストが眼前で歌っているライブを特別視しながら、ファーストテイクに嫌悪感をしめす高尚な態度は、厳しい立場に立たされたのである。残されたのは、プルースト的な美術館の《第二の生》の可能性である。いまや若者たちにとっての美術館は情報空間であることを考えると、アーティストは映像作品をユーチューブに公開することになろう。すなわち、情報空間は一つの美術館の胎児なのである。ただし、アーティストの映像作品はグーグル的な、あるいはミース的な均質空間のうえで彷徨うばかりで、そこには乾いた混沌が繰り広げられていたのが現状であった。

ホワイトキューブの誕生

ユーチューブが映像作品の美術館であるということを意識したのが、ファーストテイクそのものである。とりわけ やり方が巧妙だった。ホワイトキューブ的な空間をたずさえて美術界を席巻したMOMAと同様、あらゆるアーティストを閉じこめる白い箱を用意したからである。「白いスタジオに置かれた一本のマイク。ここでのルールはただ一つ。一発撮りのパフォーマンスをすること」。この死刑宣告によって、アーティストは動物園の動物さながら飼い慣らされ、キュレーターの解説キャプションを付加される。たとえ、どんなに素晴らしい音楽を魅せたとしても、それは動物園の象のパフォーマンスさながら、ライブの死骸にならざるを得ないのである。ライブ会場の汗の匂いは失われ、現実の泥臭さは漂白され、ステッキや傘も取りあげられ、ただひたすらに観賞を強いる空間。それだけではなく、作品が美術館に飾られるのではなく、美術館に飾られたものが作品になるという逆転現象すら発生する始末だから、とても厄介である。

作品の死骸からはじめること

こうした現状を踏まえると、ファーストテイクの空間は作品の死骸が転がるばかりで野蛮すぎる、とヴァレリー的な態度で批判してみても仕方がない。もう美術館としての情報空間は前提となっているのであり、ファーストテイクの封鎖を訴えても仕方がない。大衆は美術館の虜だから、そこから抜け出そうとする者は孤独を覚悟するしかないだろう。だから、ここで重要になるのは、プルースト的に死骸を愛好する態度である。ウィンドウシヨッピングのように、ガラス越しに様々な死骸に遭遇しながら、うっとりさせる歓びを享受してみること、次から次へと展示室を飛びまわりながら、死骸に対して素直に感嘆してみせること、この態度が重要である。このとき、ナイーヴさを美術館の外側においてくるという約束を忘れてはならない。ディズニーランドでミッキーマウスの内側を考えてはならないのと同様、ファーストテイクの美術作品が高尚かどうかなど語ってはならない。それらが死骸なのは前提であり、生のライブではないことを誰もが了解しているのだから。美術館に入場した以上、それを死骸だと口にするのは野暮そのものである。

死体愛好的な態度

美術館で死骸を愛好することは結構な歓びである。関連動画に出てくるリンクから飛びまわり、様々な乾いた記号に遭遇して走りまわりながら、よい作品の死骸があれば手にとって、その死骸をねっとりと舐めまわす快楽、これは何にも代えがたい。ただ、こうしたプルースト的な歓びを享受できる者は、もはやいなくなっているとアドルノは指摘する。「プルーストがその影と化してしまった遊歩者は、もうとっくにいなくなり、ここそこで恍惚のときを見つけるべく美術館内をぶらつくことができるものはだれもいない」。すなわち、人々は美術館を足早に通過するばかりで、よもや美術品を見ることもない時代が押し寄せているのである。死骸を舐めまわすこともなく、ただ死骸を横目に通過するばかり。そうした死体愛好的な態度すら失われた現代において、二枚か三枚の絵を選んで、そのまえに立ちどまって凝視してみること、これがアドルノの提案である。美術館のなかを走りまわって、幾つかのお気に入りの死骸を見つけたならば、その死骸をねっとり舐めまわして、骨までしゃぶり尽くしなさいというのである。ファーストテイクに置き換えるならば、お気に入りのアーティストを見つけたら、そのアーティストが溶けてなくなるまで、しゃぶり尽くすことが必要なのである。黒子の位置から、毛の一本一本まで、愛して愛して、また愛して、その先に待つものは絶頂か嘔吐かは分からないけれど、見えてる世界を変様させる何かに違いないだろう。だから僕は、こうしたファーストテイクの見方を推奨したい。

美術館から出ないこと

ただ忘れてはならないのは、そうしたネクロフィリア的な死体愛好のあり方は、美術館の内部にいるから許されているという事実である。ファーストテイクを通じてアーティストを知って欲しいなどというのは、ネクロフィリアの公言そのものだから、もし社会に排除されたくないならば、こうした発言を無自覚にするのは控えた方がよい。ミッキーマウスは素晴らしいから、ミッキーマウスをディズニーランドから解放して、現実世界を闊歩させようと宣言するのは危険すぎるだろう。ミッキーマウスが現実の道路を闊歩するならば、人々は恐怖で夜も眠れなくなってしまう。こうした勘違いをしないためにも、美術館のなかでの死体愛好にとどめなくてはならない。さて、長文になってしまったが、ここまできてファーストテイクにアダルトビデオを重ね合わせた友人の気持ちが説明できるに違いない。

アダルトビデオの空間論

アダルトビデオにおけるセックスは、本番セックスなどではなく、本番セックスの死骸だということは明らかである。この意味において、アダルトビデオの空間は、美術館の空間であり、ファーストテイクの空間そのものである。また、アダルトサイトにおいて、幾つもの趣味趣向はタグ付され、秩序だって整列されている。これも美術館さながらの分類システムである。当然、アダルトビデオは本番ではないから封鎖せよ、などと言うのは馬鹿げている。重要なことは、アダルトビデオの幾つにもわたる関連リンクを飛びまわることである。ただ、普通に飛びまわるばかりでは、世界は自分ごとにならない。そうではなくて、お気に入りの動画を見つけて、跡がなくなるほどしゃぶり尽くすことが重要である。そしてセクシー女優に会いに行くなど持ってのほかである。夢を現実に持ちこむと、ろくなことにならないだろう。よい作品の死骸があったなら、秘密裏に購入して応援しなくてはならない。大体こんなことを友人に伝えたと思うが、これを伝えたとき、彼はソファで眠りについていた。僕は彼の死骸に話しかけていたのである。

季山時代
2023.09.06