飛行機の衝突事故と有責性
飛行機の衝突事故と有責性
飛行機の衝突事故
二〇二四年一月二日。僕は、築地から有明のあたりを視察していた。このあたりを観察すると、たくさんの大型ビルが立ち並び、小型の建物が一つもないような雰囲気が感じられる。タワーマンションが目覚ましい速度で建てられ続け、ララポートは日常に住まう人々で溢れかえっていた。僕は、この雰囲気に怯えていたように見えた。家に帰った僕は、飛行機と飛行機が衝突するニュースを知り、しばらくのあいだ放心状態になっていた。僕が書いた文章を見ると、大型ビルと大型の飛行機が重ね合わされてる、と考えるのは無理のない解釈だろう。何も考えない人は、何かを考えている人よりいつも多いという、ただそれだけのことを伝えたいのかもしれない。左記は視察の記録写真。僕はこう書いていた。
©季山時代《有明体操競技場》2024山地大樹
飛行機の衝突
飛行機と飛行機が衝突したというニュースの映像を見た。その衝撃的な映像に、テレビそのものが震えた気がした。一台の大型の飛行機が滑走路に着陸しようとするのだが、その先にもう一台の小型の飛行機が居合わせた結果、飛行機が衝突する。映像を見るかぎり、衝突の瞬間に花火のような大爆発が起きるのだが、大型の飛行機の勢いは止まることなく、慣性の法則にしたがって、炎に包まれた小型の飛行機を引きずりながら進み続ける。機内の写真も悲惨なもので、飛行機特有の角丸の窓のなかは、炎で真っ赤に染まっている。いまのところ、大型の飛行機の内部にいた乗客は全員が無事に脱出して、小型の飛行機の内部にいた乗員は六人中五人が死亡したという。このニュースを見たとき、渦巻くような感情が僕の心のなかに生じるのを感じた。渦巻くような感情、説明しがたいこの感情はどこに由来するのだろうか。少し考えてみたい。
大きいものと小さいものの衝突
心のなかに生じた渦巻くような感情、この感情はどこに由来するのだろうか。被害者がいるので滅多なことは言うべきではないが、僕の心を揺さぶったものを正直に見つめてみると、大きなものと小さなものが衝突したとき、必ず小さなものが負けてしまうという事実に対して、心が揺さぶられたように感じられる。一方の小型の飛行機は、能登半島における地震への対応として、物資輸送のために新潟に向かう予定だったものだという。これが正しいならば、小型の飛行機は被災者の救助という正当な目的のために動いていたと言える。他方の大型の飛行機は通常運行のものであり、そこに乗っていた乗客達の目的は計りかねない、一人ひとりの日々の生活のなかでの物語があるに違いない。このような対立する図式に落としこむならば、僕の違和感の正体が明らかになる。被災者への物資輸送という緊急の目的で動いていた小型の飛行機が、通常運行で人々を運ぶという日常の目的で動いていた大型の飛行機に殺されたこと、この事態が心を打ったのである。
有責な僕たちはどう生きるのか
日常はいつも大きく、非日常はいつも小さい。今回の事故で感じたのは、日常が非日常を押しつぶすほど膨大な権力を持っていることである。もし仮に大型の飛行機に乗っていたらと想像すると、僕は動揺して一歩も動けなくなる。もし観光旅行の帰りだとするならば、みずからの気晴らしが被災者の援助を試みた小型の飛行機を殺してしまったこと、この加害者としての側面に耐えられなくなる。果たして、余暇は人を殺す権利があるのだろうか? もし仕事の帰りだとするならば、その仕事は、被災者を援助しようとする小型の飛行機を殺戮するだけの価値を持つというのか。果たして、仕事は人を殺す権利があるだろうか? 要するにこう思えてしまうのである。僕が日常を生きていること、それ自体が有責なのではないか、と。観光も仕事も、こうした何気ない日常は、あの小型の飛行機を火だるまにして引きずりまわすだけの権利を持っていたのだろうか、と。
一生懸命に生きること
大型の飛行機のなかの荷物の補償がどうなるとか、管制塔で何が起こったか説明しなくてはならないとか、そうした日常が幅を利かせてしまうまえに、日常それ自体に本当に意味があるのかを、大きなものは小さなものを殺す権利があるのかを、もう一度だけ考えなくてはならない。僕は、もう既に日常という大きな飛行機に搭乗してしまっている。だから、いつ小さな飛行機に衝突してしまうか分からない。衝突する可能性を零に近づけることはできるが、完全に零になることはないだろう。事故が起きてからでは遅い。ただ、もし事故が起きてしまったときに、小さな飛行機に乗っているひとに胸を張れるような生き方をしなくてはならない。僕は、大きな飛行機に乗っているというただそれだけの理由で、小さな飛行機に乗っている人に対して有責なのである。小さな飛行機に乗っている人が、被災者を援助するという誇らしい仕事をしていたことを知ったとき、後悔しないように、それに負けないほど一生懸命に日常を生きなくてはならない。
季山時代
2024.01.02