デートの下見デート論
デートの下見デート論
デートの下見論
二〇二四年一月四日。僕は、ある女性に恋をした一人の友人の話を聴いていた。その恋に盲目な友人と、デートの下見をするべきかどうかについて議論しながら、デートの下見というのは想像以上の哲学的な考察を求めるものなど直観したようである。僕が書いた文章を見ると、フッサールやフロイトやラカンの影響が見られる。とりわけ重要なものは、フロイトのナルシシズム論だろう。僕はフロイトに傾倒していた時期がある。また、この文章における現実的という言葉は、ラカンの現実界とは異なるものだろう。僕はこう書いていた。
山地大樹
デートする前がもっとも楽しい
ある恋愛における定式からはじめよう。デートは、デートする前がもっとも楽しいというものである。これは付き合う前がもっとも楽しいこと、と言い換えてみてもよいだろう。経験から得られる定式は一滴の真理を含んでいることが多いから、この定式について丁寧に考えてみるならば、人間的な性の本質を引きずり出すことができるかもしれない。まず、デート直前の心理状態の記述からはじめてみる。私に気になる相手がいるとする。気になる相手のことは何も知らないが、気になる相手がいると意識した時点において、気になる相手がいるという了解のなかに身を置くことになる。気になる相手がいるということは、漠然と意識されるだけの心的事実だが、相手を求めることを含んでいる。私は、相手がデートに来てくれるかという一縷の不安を抱えながら、気になる相手をデートに誘うことにする。運よくデートの約束を取り付けることが出来たならば、断られるかもしれないという不安は安心へと変わるのだが、今度はいかなるデートにするかを展開させるかという別様な不安が生じる。そこで、デートを想像しながら、デートプランを予期することになるだろう。
デートを想像すること
デートを想像すること。デートプランを予期すること。ここにおいて、デートの相手は想像的な他者として心のなかに現われる。想像的な他者の性格として、想像された他者が自分の想像を超えてこないことが挙げられる。フッサールが明らかにしたような仕方において、私はデート相手に感情移入するからである。このようなデートにしたならば、あの子はこう考えるのではないか。このような会話をしたならば、あの子はこう返答するのではないか。このような場所に訪れたなら、あの子はここに行きたくなるのではないか。こうして想像される他者は、みずからの想像力の範疇を決して超えることがない。私は、あの子のなかに私を移し入れながら、あの子の行動を想像することしかできないからである。あの子は私の想像力のなかで飼い慣らされる。想像のなかで訪れる想定外があるとしても、その想定外は、みずからの想像力が想像できる範囲を超えることは決してない。想像上のデートにおいて、本来的な意味における想定外は決して起こり得ない。
デートの想像はナルシシズム的態度である
私は、あの子のなかに私を移し入れてデートを想像する。このとき、想像されたあの子が優しい魅惑に満ちているのは当然である。なぜなら、あの子は自分自身のコピーに過ぎないのだから。想像されたあの子は、あの子の輪郭こそ失わなわれないものの、その輪郭のなかを占拠しているのは私である。要するに、私が想像のなかでデートを展開させているとき、私はあの子の皮をかぶった私とデートしている。想像されたあの子は私の変様体に過ぎず、想定内の未知性を孕むことしかできない。結局のところ、デートを想像することは、私自身を楽しませる仕方を想像すること以外の何者でもないのだから、楽しいことは確定している。デートはデートする前が一番楽しいという恋愛の定式は、ナルシシズム的な観点から考えられるべき事柄なのである。想像的なデートにおいて、世界は自分を中心にしてまわっている。これは、恋に恋している状態と呼ばれるに違いない。
想像的なあの子に会いに行く
私は、想像のなかであの子との関係を身勝手に想像する。あの子とどのお店に行こうか、あの子といつ手を繋ごうか。想像のなかのあの子は従順な操り人形である。私の想像に素直に従いながら、あの子は想像どおりに私の手を握り返したり、想像どおりに私の手を払い退けたりする。結局のところ、デートを想像することは、あの子を思い通りに動かすことに過ぎない。こうしたナルシシズム的な態度は、青春をおくる誰しもが経験するものであり、異常なことでもなんでもない。このナルシシズム的な態度に大転換が起きるのはデートの当日である。何度も入念にデートを想像したあと、私は何度も想像したあの子との待ち合わせ場所に向かう。夢にまで見たあの子が私を待っている。そして、あの子が振り向いて顔が見えたその瞬間、ずっと想像していたデートが現実としてはじまる。このとき、想像上のあの子は、待ち合わせ場所で待っている現実のこの子と重なり合う。ずっと想像していた自分自身のコピーとしての《想像的なあの子》と、いま眼前で佇んでいる他者としての《現実的なこの子》、この二人の遭遇の仕方がデートの分岐点となる。一体なにが起こるのだろうか。
想像的なあの子と現実的なこの子の遭遇
想像的なあの子と現実的なこの子の遭遇。このとき、何度も想像していた想像的なあの子は、いま目の前にいる現実的なこの子のうえに覆いかぶさろうとうする。最初は、目の前にいるこの子が、想像していたあの子のように動くことを期待するからである。しかしながら、現実的なこの子は想像的していたあの子とはまったく別物だということに気が付くだろう。現実的なこの子は、想像どおりに動くことなどあり得ないし、想像とはまったく異なる行動や会話を繰り広げるからである。当然ながら、この子はあの子の皮をかぶった私ではない。この子は汲み尽くせない他者であり、私の想像を遙かに超えてくる。この子が想像どおりに動かないことに気がついた私は、想像的なあの子を放棄せざるを得なくなる。この子を想像どおりに動かそうとすることを諦めて、この子と向き合う必要が出てくる。いつまでも想像力の王国を指揮し続ける王様でいるわけにはいかないから、現実的なこの子を素直に受け容れるしかない。ナルシシズムを放棄して他者と向き合うこと。これが恋愛における正常と呼ばれるプロセスだろう。
想像的なあの子を放棄しない場合
想像的なあの子と現実的なこの子は異なる。だから、想像的なあの子を放棄して、現実的なこの子と合うことが求められる。しかしながら、想像的なあの子と現実的なこの子との差異に気づきながらも、想像的なあの子を放棄しない場合がある。現実的な他者よりも、自分自身が扱いやすい想像的な他者に執着して、ナルシシズム的に生きる場合である。その場合、次の三つの道を選択することになるだろう。第一の道は、この子は想像していたあの子と違いに落胆して、デートを切りあげて解散する道である。この態度は、想像的なあの子を守るために現実のこの子を放棄して、想像のなかに生きる決意をすることである。第二の道は、想像的なあの子を現実的なこの子に無理やり押し付けようとする道である。この態度は、眼前に構えるこの子に対して想像的なあの子を憑依させる試みである。現実的なこの子のなかに、想像的なあの子の影を見ようとするという意味で、現実的なこの子は想像的なあの子を投影する鏡である。第三の道は、現実的なこの子を想像的なあの子に近づけようとする道である。この態度において、現実的なこの子を想像的なあの子に接近させるべく、現実的なこの子の洋服や行動に口出しを続ける。現実的なこの子は、想像的なあの子の欠陥品として扱われる。
第二の道と第三の道は、ベクトルが違うだけで同じような道とも言える。第二の道があの子をこの子に合わせて降格させようとする一方、第三の道はこの子をあの子に合わせて昇格させようとする。だから、これらの道は複合的に現われることがほとんどで、あの子とこの子の中間の妥協点で安定する場合が多い。ただし、第二の道にせよ、第三の道にせよ、現実的なこの子は想像的なあの子の模造品にすぎない。第一の道の場合、想像的なあの子と現実的なこの子の差異を見つけたうえで、想像的なあの子を選ぶ選択だから潔いとも言えるが、現実と関わり合う経路を捨てている点おいて、自分の想像に合わない者との関わりを断つ自閉的なあり方である。ところで、いずれの三つの道をとるにせよ、眼前の現実的なこの子が軽んじられすぎていることが問題である。想像的なあの子を放棄しない場合、想像的なあの子に固執してしまうため、現実的なこの子を生のまま見つめることが困難になる。現実的なこの子と向き合うためには、想像的なあの子を放棄しなくてはならない。それは、想像的なあの子という自分自身を愛するナルシシズム的態度から脱却することを意味している。では、現実的なこの子と向き合うとは何が起こるのだろうか。
現実的なこの子と素直に向き合うこと
眼前のこの子が想像していたあの子ではないと認めること。目の前にいるこの子は、あの子の皮をかぶった私ではなく、それ自体でこの子であると認めること。想像的な他者を放棄して、現実的な他者と素直に向き合うこと。そう決意したならば、私は心苦しい場所に連れ出されるだろう。想像的な場所において、私はあの子を変様させて欲望を充足していたが、想像的な場所を諦めたならば、私は現実的なこの子に見合うように私自身を変様させなくてはならないからである。現実的なこの子は、私が操作できる道具などではないし、私を移し入れても決して汲み尽くせない未知なる存在である。だから、私は現実的なこの子の求めている人物像を想像して、その人物像にみずからを接近させるべく努力する。これを片想い、あるいは恋をしている状態と呼ぶのだろう。私はあの子のために変様し続けなくてはならず、そのために私を捨てなくてはならない。現実的なデートにおいて、世界はこの子を中心にしてまわっている。
永遠に生きられるだろうか、この子のために
想像的なデートにおいて、世界は自分を中心にしてまわっているが、現実的なデートにおいて、世界はこの子を中心にしてまわっている。前者は恋に恋している状態であり、後者は恋をしている状態である。恋に恋している状態において、全生命の力点は自分に置かれているため、自分の言うことを聞かないこの子は死んでもよいと思えるが、恋をしている状態において、全生命の力点はこの子に置かれているため、自分の存在価値はこの子に委ねられていて、もしこの子が死ぬことを望むなら、私は死んでもいいと思える。人間が恋をする力は生死すら超越するのである。そうだとはいえ、現実的なデートは長く続くことはない。この子のために、みずからを変様させ続けることには限界がある。結局のところ、現実的なこの子の理想像を演じ続けることなどできない。そもそも、この子の理想像など本当にあるのかすら分からないのだから。そこで、その先の段階へ進まなくてはならない。
象徴的な解決
デートを二段階にわたって記述してきた。想像的な場所、そして現実的な場所である。そして最後に訪れるのが象徴的な場所である。象徴的な場所は、お付き合いすることを考えると分かりやすい。自分のコピーとしてのあの子を選ぶか、自分の目の前にいるこの子を選ぶか、こうした二項対立的にせめぎあう不安定な世界に対して、言語を介した象徴的な解決が与えられる。あの子かこの子か、自分か他者か、こうした残酷で不安定な二項対立に対して、彼氏と彼女というレッテルを貼ることによって、どちらも等しく大事であることが保証される。言語という法を介して、互いが互いに尊重しあう関係が確認されて、調停の手続きの結果、自分と他者がお互いを支え合うことが可能になる。これを愛と呼ぶ。世界は、自分と相手という二つを中心にしてまわるのである。したがって、象徴的な場所の愛のイメージは楕円形となるだろう。象徴的なデートは、恋をしているときのドキドキ感はないが、居心地のよい安心感がある。
想像的な場所への退行
象徴的な場所における解決が得られない場合、たとえば付き合うことができない場合、ずっと現実的な場所に居続けることは困難なために、やっぱり想像的のあの子がよかったと、居心地のよい想像的な場所へと退行することもある。この場合、想い出に浸りながら回想のなかを生きることになるだろう。退行された想像的な場所は、居心地のよい場所なのだろうが、他者との関わり合いを欠いた引きこもり的なものになる。これは、想像的な場所に再び訪れるという点において二次的ナルシシズムとでも呼ぶのがよいかもしれない。さて、ここまでデートを三つの段階で記述してきた。想像的な場所、現実的な場所、象徴的な場所である。この三つの段階は、私の世界、他者の世界、二人の世界と言い換えてもよいし、恋に恋するということ、恋するということ、愛するということと言い換えてもよいだろう。最終的に、デートは象徴的な解決を与えられ、世界は安定するのである。
象徴的な場所の問題点
とはいえ、象徴的な解決に問題はないのだろうか。それは安定しすぎていないだろうか。二人の世界の根拠を、言語に委託しすぎていないだろうか。法を保証する大文字の他者を信頼しすぎていないだろうか。二人は、彼氏と彼女という記号として扱われていないだろうか。象徴的な場所は安定しているものの、想像的な場所であの子を好き勝手動かすような自分勝手な側面や、現実的な場所でこの子を見つめていたような情熱的な側面、そうした人間らしいものが失われていないだろうか。これは、本当の意味で二人がお互いを見つめあっていると言えるのだろうか。こう問いかけて見ると、象徴的な場所は、想像的な場所と現実的な場所を排除することで成立してくるように思えてくる。もし、彼氏と彼女の象徴的な場所において、どちらかが自分勝手に振る舞う想像的な場所が浮上したり、どちらかが一方的に依存するような現実的な場所が浮上したならば、別れが訪れることになるだろう。もし象徴的な場所の安定感を手放さないままに、想像的な場所や現実的な場所を取り入れることができるならば、もしそんなデートを考えることができるならば、二人はずっと愛し合えるに違いない。そこで、一つのデートのあり方を提案したい。デートの下見デート、これである。
デートの下見デート論
ここまではデートを分析することに終始していたが、こうした分析を踏まえて新しいデートを提案してみたい。ただ、ここからは単なる思考実験に過ぎないことを断っておく。私が提案するのは、デートの下見デートというものである。デートの下見デートとは、デートそのものではなく、その先にあるデートを見据えたデートである。この不思議なデートによって、言語に主導権を奪われた象徴的な場所のなかに、想像的な場所と現実的な場所を繰り込むことを考えてみたい。まず、気になる相手をデートの下見としてデートに誘う。口実はなんでもよいが、デートしたいが、どこに行くべきか分からないから一緒に下見して欲しいとでもしておけばよい。もし相手に好意があれば来てくれるに違いない。
下見デートにおいて、来るべきデートに向けての準備的なデートであることを互いが承知しているから、私は想像的なあの子を放棄することなく、現実的なこの子と向き合うことができる。現実的なこの子は、私が想像的なあの子を手放していないことを周知のうえでデートに参戦するのだから、想像的なあの子を押し付けられても、ある程度は演じてくれるに違いない。デートそのものが想像的な場所として実現されるのである。だからといって、私は想像的なあの子に固執するわけではない。デートの中途、現実的なこの子に対して「こうしたらあの子は喜んでくれるかな?」とたずねるからである。このとき、想像的なあの子を題材としながら、現実的なこの子との対話が行われるのであり、他者に向き合う現実的な場所の側面が失われることはない。こうして、想像的なあの子と現実的なこの子が無理なく調和してゆく。想像的なあの子と現実的なこの子は徐々に溶解するのであり、どちらの像も放棄する必要がなく融合する。
そしてデートの下見デート最後、私はこう述べる。「この下見デートは、あなたとのデートの下見だったんです。来週、本番デートをしてくれますか?」と。もし相手が本番デートに来てくれるようであれば、象徴的な場所が成立するだろう。こうして実現した象徴的な場所は、想像的な場所と現実的な場所を含みこんでいるから、本当の愛のかたちになると直観している。デートの下見デート、私が理想とするデートは以上のものである。あまりに独我的で批判が殺到するだろうから、申し訳程度に以下の文言を付けておく。ただし、両想いに限る。私は、フロイトやラカンの理論を参考にしながら以上のデート論を空想してみたのが、精神分析を無理に父や母の三角形に還元することをしなくとも、日常のデート程度の生活世界の恋愛論を、彼らの精神分析の理論を使って考えてみるのは楽しい遊びである。こうした遊びも許されてよいだろう。
季山時代
2024.01.03


