ナンとカレーの身体論
ナンとカレーの身体論
ナンを食べる
二〇二四年一月五日。僕は、昼ごはんとしてナンを食べようとしていた。ナンにカレーをつけて食べようと考えていたのだが、抽斗のなかにあるはずのカレーが見あたらないことに、ナンをオーブンに入れてから気がついたから、ナンだけを食べることになったらしい。僕は、マラルメにおける不在の花を意識しているのだろう。また、ヴァレリーの身体論を読んでいたことも付け加えおこう。僕はこう書いていた。
山地大樹
カレー不在のナン
ナンを食べた。なんだかカレーになった気がした。
ナンを食べていると、この一文が突如として頭のなかに浮上した。自宅のテーブルに向かって座り、ナンにたっぷりのバターを塗って食べていたのだが、明らかにカレーの香りが立ちのぼってきたときに書かれた一文である。ここで重要なのは、僕はナンだけを食べていたということである。小腹を満たそうとしただけだから、とりたててカレーはつくらなかった。確認するならば、周囲にカレー屋があるわけでもなく、隣の家がカレーをつくっていた痕跡もない。にもかかわらず、カレーの匂いが立ちのぼってきたのである。カレーを伴わないナン、いわばカレー不在のナンから豊潤なカレーな匂いが立ちのぼり、鼻をくすぐるのはなぜだろうか。
ナンとカレーの記号学
ナンといえばカレーというイメージが定着しているが、インドに訪れたときのことを想い出すと、カレー王国の住人はナンとカレーを一緒に食していなかった。調べてみると、精製された小麦粉でつくられるナンは贅沢な宮廷料理であり、庶民は全粒粉でつくられたチャパティを主食としているらしい。すなわち、カレーとナンという記号の組み合わせは、インド固有のものではなく、日本という辺境国でつくられたものである。ここから見出されるべき可能性は二つである。第一の可能性は、ナンとカレーの記号の癒着は必然ではなく恣意的なものだということ。チャパティとカレーの組み合わせでもよいし、ライスとカレーの組みあわせも可能であるし、もっといえば、未知なるものとカレーの組み合わせも考えることができる。そうした幾つもの可能性のなかから、一つか二つ程度の組み合わせが日常に定着する。膨大な潜在的な可能性のなかから日常に定着するものは限られている。
第二の可能性は、記号の改編は、食事の伝統を無視できる辺境国において発生しうること。インドにおいて、ナンは高価なものだという伝統が根づいていたことが正しいならば、ナンとカレーをともに食することが日常として定着することは考えられない。なぜなら、記号を日常に定着させる役割を分担しているのは大多数の庶民であり、贅沢品を食べるひとはいつも庶民より少ないからである。庶民が日常のなかで食べるものが記号として定着するのであり、その逆はあり得ないだろう。要するに、ナンとカレーの記号の癒着は、ナンが高価なものだという伝統が根づいているインドでは起こり得ないものであり、辺境国に輸入されてはじめて生じるということである。なるほど、フランスパンはもともと高価なものであったのだが、ベトナムにおいてバインミーとして定着したのも同型かもしれないし、もっといえば、ビーフシチューが肉じゃがの関係、寿司とカルフォルニアロールの関係などにも敷衍できるかもしれない。大胆に推測すれば、贅沢品ゆえに原産国で定着していない記号の組み合わせは、辺境国において庶民のものとして飼い慣らされて、記号として定着するのではないだろうか。
ナンとカレーの補色の関係
話が脱線してしまったが、ナンとカレーという記号の癒着が日本において定着しているということを言いたかっただけである。とりわけ、日本の伝統的な主食はライスであるから、ライスは伝統的に様々な記号と結びついているが、ナンは単に輸入されただけのものだから、カレー以外の記号と結びついていない。また、インドカレー屋がナンを提供するという商業文化も後押しして、ナンとカレーの記号の結びつきは強固になる。こうした事情からナンといえばカレーというイメージが定着したのだろう。ところで、ナンを食べたときにカレーの香りが立のぼるという現象は、補色の関係に類似している。赤色を見たとき、網膜が潜在的に緑色をつくり出しているように、ナンを食べたとき、身体は潜在的にカレーをつくり出している。もしそうならば、ナンとカレーは記号的に結びついているというばかりではなく、身体がナンという出来事との遭遇することによって、身体のなかに潜在的にカレーがつくり出されている。ナンを食べているときに感じた豊潤なカレーの匂いは、身体のなかにつくり出された潜在的なカレーの匂いで間違いない。
身体の五感とカレー
カレー不在のナンを食べているとき、身体のなかに潜在的なカレーがつくられる。重要なことは、潜在的なカレーは味覚として現われるのではなく、聴覚として現れていることである。カレー不在のナンを食べているとき、口のなかはナンの味に占拠されているから、カレーの味が現象することはない。味覚はいつも、ある何ものかについての味覚であり、今回の場合は口に含まれたナンについての味覚である。視覚も眼前のナンをめざしているし、感触も手のなかのナンをめざしている。残るは聴覚と嗅覚であり、潜在的なカレーが身体に侵入する余地があるのは聴覚と嗅覚である。カレーに音はないから、潜在的なカレーは嗅覚として訴えかけてくる。幻嗅だろうか? いや、むしろこう考えるべきかもしれない。ナンとカレーの記号を結びつけるために嗅覚が用いられている、と。記号と記号の隙間には、身体性が入りこんでいる? 目と鼻の先の記号? もう少し考えなくてはならない。
季山時代
2024.01.05
