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卵が先か、鶏が先か

二〇二四年一月十一日

卵が先か、鶏が先か

卵が先か、ご飯が先か

二〇二四年一月十一日。僕は、チャーハンをつくるなかで、ご飯を先に入れるか、卵を先に入れるのかが不意に分からなくなって困惑していた。いつも通りなら卵を先に入れるのだが、その選択は決定事項などではないから、卵を先に入れても、ご飯を先に入れても許されるはずである。卵を先に入れるか、ご飯を先に入れるか、これは僕にとって自由に扱える権利ではないか。こう考えているとき、卵が先か、鶏が先かという問いが浮上して、これについて書きたいと思った。僕は、習慣に逆らってご飯を先に入れたが、いつもより美味しくなかった。なるほど、因果関係にはそれなりの理由があるのかもしれない。さて、僕が書く文章で見落とされているのは、二人目の子供をどう捉えるかという問題である。二人目の子供を産むとき、母親が子供を産むという事象が現実に生じるだろう。これに対しては、解剖学的な母親と、社会的な母親は異なるという見解でよいのだろうか? もしそうだとすると、社会的な母親という記号としての性格が二人目の子供の性格に影響を与えることをあり得ないだろうか? これらの問いは、棚に上げておこう。僕はこう書いていた。

山地大樹

卵が先か、鶏が先かの結論

卵が先か、鶏が先か。もし卵が先ならば、その卵を産んだ親の鶏がいることになる。もし鶏が先ならば、その鶏が成長した卵が先にあることになる。したがって、卵が先か、鶏が先かは解けないことになる。進化論からは、卵が先であるという一応の結論が打ち出されているようだが、ここで問題にしなければならないのは、何故そんな問いが成立するのかである。こう問いかけることによって、このパラドックスは言語の問題へと漂着することになるだろう。徐々に明らかにしたいと考えているが、結論を先に述べておく。卵と鶏は同時に誕生した、これである。

子供が先か、母親が先か

卵が先か、鶏が先か。この問題に光を投げかけるべく、人間に置き換えて考えてみることにしよう。子供が先か、母親が先か。もし母親が先ならば、その母親の子供時代が先にあることになり、もし子供が先ならば、その子供を産んだ母親がいることになる。ここでパラドックスが起きているように見えるが、立ち止まって冷静に考えるならば、母親の誕生の瞬間が見落とされていることに気がつくだろう。母親が子供を産むという前提そのものが錯覚だからである。解剖学的な意味に限定して考えるならば、子供を産んでいない女性を母親と呼ぶことはできない。そうではなくて、一人の女性が子供を産んだときにはじめて母親になる。すなわち、母親という名前は子供が産まれたときに初めて与えられるものであり、子供の誕生と同時に生じているのである。したがって、母親が子供を産むことはなく、母親と子供は同時に誕生する。

子供と母親は同時に誕生した

子供と母親に置き換えることで得られるのは、母親と子供が同時に誕生するということである。一般に、母親が子供を産むという表現をする場合、言語の世界に足を踏み入れてしまっている。母親が子供を産むという表現における母親は、現実界の人間を意味するものではなく、象徴界の人間を意味している。現実において、母親が子供を産むことは決して起き得ず、子供が産まれる瞬間に母親が成立しているからである。子供が先か、母親が先か。この問いにおける母親は、ある一人の生身の人間ではなくて、母親と呼ばれることで浮上する仮称としての人間であり、母親は言語によって記号化されている。ただし、記号としての母親という空虚なものが腑に落ちることはなく、空虚な記号はそのままに放置されることはなく、イメージによって補完される。そこで、記号としての母親に対して、現実としての生身の母親のイメージが重ね合わされ、母親が実体化される。記号は肉付けされるということである。こうして、母親が子供を産むということが現実では起き得ないにもかかわらず、現実に起きたように感じられるという錯覚が生じて、パラドックスが生じる。

卵も鶏のパラドックスの原因

子供と母親の錯覚を暴くことで、人間は言語の世界を介すことなく、物事を考えられないことが明らかになった。さて、卵と鶏の問題に戻らなくてはならない。卵と鶏の問題において問われているのは、起源への問いである。遥か遠い過去において、卵から鶏が生まれる瞬間が先だったのか、はたまた鶏が卵から生まれる瞬間が先だったのかが問われている。ここで重要なのは、人間が起源を問うさいに、言語の世界を介さずに考えることが不可能だということである。起源という遥か遠い過去は現実ではないから、結局のところ言語で掴まえることしかできず、その瞬間は記号によってしか捉えられない。起源を問うたとき、卵が先か、鶏が先かという言語を介した問いが成立している。この問いにおいて、卵は現実の卵ではなく、鶏は現実の鶏ではなく、両者とも言語による記号以外のなにものでもない。それにもかかわらず、その空虚な記号としての卵と鶏に対して、現実の生身の卵と鳥のイメージが重ね合わされて、両者が実体化された結果、現実としての卵と鶏があるかのように考えてしまう。こうして卵と鳥のパラドックスが生じる。

卵と鳥は同時に誕生した

したがって、卵が先か、鶏が先かという起源への問いを問うた瞬間に、卵と鶏の両者が同時に誕生すると考えてよい。問いかけによって、卵と鶏は言語を介した記号として成立して、イメージを割り当てられて実体化される。この時点において、卵と鶏はまったく無関係のものとして浮上する。しかしながら、その無関係の卵と鶏に対して因果関係が押しつけられる。その因果関係を押し付けるのが、問いにおける「先か」という箇所である。この先かという言葉の効果によって、卵を考える際に先にある鶏が、鶏を考える際に先にある卵が、仄めかされる。仄かしは、雪だるま式に延長されて、この問いから新たな時空間が成立する。それは、人間が生きている現実の時間かのように振る舞っているが、その正体は、記号によって成立した空虚な時間にすぎない。こうしてパラドックスは解けなくなる。だから、このパラドックスの錯覚を暴露するためには、こう答えるのが正解である。卵と鳥は同時に誕生した。以上が言語における卵と鳥のパラドックスへの回答となるだろう。

季山時代
2024.01.11