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フォーと水溜り

二〇二四年一月十七日

フォーと水溜り

汚い駅のトイレと綺麗で透明な存在

二〇二四年一月十七日。僕は駅のトイレの中が水浸しになっているのを見て、綺麗な水と汚い水の違いを考えていた。蛇口から出る水は綺麗なものなのに、トイレの床に落ちた途端に汚いものとして感じられる理由はどこにあるのだろうか、と。このとき、ベトナムの体験が想起された。僕の書く文章をトイレでの体験と比較すると、逆転した関係にあることが分かる。トイレでの体験において、蛇口から出てくる綺麗な水が、床に落ちることで汚い水溜りになるのだが、ベトナムでの体験において、貧困層の男が食べている汚いフォーが、床に落ちることで綺麗な水溜りになる。こうして、透明で心地よい吐き気が生じる。透明で心地よい吐き気という表現がサルトルの影響だとするならば、フォーは綺麗な存在に変貌したのだろうか。綺麗で透明な存在とはなんだろうか。また考えなくてはならない。僕はこう書いていた。

山地大樹

フォーを床に捨てる男

不意に想起されたベトナムの回想。ベトナムを訪れて強烈に印象に残っているのは、道路上でフォーを提供する小さな屋台において、ある褐色肌の男が、フォーの残り汁を道路にぶちまけるのを見たことである。アジア特有のプラスチック製のカラフルな椅子が六つほど置かれた、地元感のある小さな屋台における、汚いアスファルトの路地のうえを舞台にした出来事であった。貧困層の男がご飯を捨てたことに対する不信感とか、せっかくの美味しい食べ物がもったいないという正義感といった後付けの理由ではなく、男がフォーをぶちまける瞬間の印象だけが目に焼き付いて離れなかった。ぶちまけられたフォーは、灰色の道路のうえに水溜りをつくっていたが、驚くべきは、道路のうえに捨てられたフォーが想像以上に透明だったことである。前日には小雨が降っていて、道路にはところどころの水溜りがあったのだが、水溜りとフォーは見分けられないほど似通っていた。どちらも浅く透きとおっていたのである。それからしばらくは、すべての水溜りがフォーに見えてきて、水溜りを見るたびに透明で心地よい吐き気を感じたものである。いまでも水溜りを見ると、フォーなのではないかと疑うこともある。

季山時代
2024.01.17