卵なしご飯の哲学
卵なしご飯の哲学
究極の卵かけご飯
二〇二四年一月十八日。僕は、卵かけご飯を食べようとして、卵を白米のうえに落としこもうとしたが、その白いご飯の存在がやけに光り輝きはじたのか、白ごはんに数秒間ほど見惚れていた。思えば数日前、究極の卵かけご飯というのがテレビ番組で特集されていたが、そんなものはあり得ないと僕は腹を立てていた気がする。多分、究極の卵かけご飯とは、卵なしの卵かけご飯だと確信していたからだろう。僕はこう書いていた。
山地大樹
卵なしご飯
卵なしご飯、と彼は呟いた。太陽のような、眼球のような、卵の豊 潤なイデアが立ちどころに現象して、卵は美しい音楽をかなでた。
卵なしご飯は、ただの白米のご飯を意味しているだけである。しかしながら、その意味とは裏腹、卵なしご飯という言葉は卵を強烈に喚起させる。《卵かけご飯》と表現する場合、頭のなかに浮上するのは卵かけご飯そのものである。それはサルトルが想像力の問題で明らかにした仕方において、一挙に喚起されて、それ以上の響きや匂いを持つことはない。卵かけご飯という言葉は、卵かけご飯を喚起させる以上のものではあり得ず、頭のなかには死んだ事物としての卵かけご飯が浮上してくる。死んだ事物として現象する卵かけご飯は、卵かけご飯でしかなく、頭のなかに浮上する卵かけご飯をくまなく点検してみても、なんら新しい情報は与えられない。では《ご飯》と表現する場合はどうだろうか。これも、卵かけご飯と同様、お椀一杯の白米が浮上してくるばかりであり、それ以上の豊潤さを持つことはない。卵かけご飯にせよ、ご飯にせよ、イメージは完結していて、震えを欠いた貧しいものとして現われる。
卵なしご飯の分析
他方で、《卵なしご飯》と表現する場合、その言葉が喚起する茶碗に盛られた白米には、確かな窪みがあり、イメージが震え続けるのを感じ取れる。 現実のどの卵よりも艶やかな卵が、現実のどの橙黄色よりも鮮やかな橙黄色卵が、窪みのなかに入りこもうと疼いている。しかしながら、その卵はご飯のうえに落とされるのを言語によって拒否されている。卵がご飯のうえに落とされた途端、その卵は消失しなければならない。なぜなら、卵が乗せられた時点において、それは卵かけご飯になってしまうのだから。要するに、卵なしご飯という表現は、ご飯のうえに不在を現前させるのである。その不在のうえに、卵は滑りこもうと尽力するのだが、滑りこむことは否定されている。卵は、卵かけご飯になるために呼び出された存在にもかかわらず、卵かけご飯として存在することは許されていない。こうした存在の否定において、卵は甘美で豊潤なものとして、瞬間的に現前する。
卵はどこから来たのか
とはいえ、ここで問わなくてはならないのは、卵なしご飯における卵はどこから来たのかである。この卵は、過去に見たことある卵かけご飯から、掬い取られたようなものではない。もしそうならば、卵は一つのイメージに収斂して、ピンポン球のようにご飯のうえを弾み続けるだろう。要するに、卵を一つの実体のようなものだと仮定するならば、それがご飯のうえに乗ろうとして弾き返されるような、そんな反復が想像されるに違いない。しかしながら、そんなふうにはなっていない。卵なしご飯における卵は、ご飯のうえ に落とされたその途端、跳ね返ることなく消滅して、また新しい卵が呼び出されてくるというふうになっている。然るに、卵は言語によって呼び出されて誕生したのち、言語によって白米のうえに落とされて死にいたる。卵なしご飯という言葉は、卵の誕生と死をその都度に喚起させるのである。まだ確信を持って言うことはできないが、卵なしご飯という表現によって喚起される卵は、多分、言語のなかに内包された卵ではないだろうか?
季山時代
2024.01.18