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コインロッカーの都市論

二〇二四年一月十九日

コインロッカーの都市論

コインロッカーのイメージ

二〇二四年一月十九日。僕は駅の雑踏のなかを歩いていた。その中途、黒いミニスカートを穿いてピンク色の小さなリュックを持った女性と、黒い革靴を履いて金色の長髪をまとわせた男性が、コインロッカーの前で話しているのが嫌に目立つから、遠くから目で追いかけていた。そして女性がコインロッカーを開けた瞬間、人間の赤ん坊くらいの大きさのマイメロディの縫いぐるみがゴロリと転がり落ちるのを目撃した。このイメージが、村上龍のコインロッカーを題材とした小説と結びついて、コインロッカーについて書きたくなったのだろう。僕はこう書いていた。

新装版 コインロッカー・ベイビーズ

山地大樹

都市のなかの鍵をかける場所

コインロッカーを見ると個室のようだと思えてならない。この個室に寝泊りする住人は預けられた荷物である。預けられた荷物は、持ち運ぶには大きすぎたり重すぎたりして、一時的に孤児として個室に押し込められている。大抵の場合は二十四時間以内に預け親が帰ってくるが、もし預け親が帰ってこない場合、コインロッカーのなかの孤児は保護されて、最終的には遺棄されてしまう。ところで、コインロッカーの各個室には鍵がもうけられ、鍵をかけた人物以外は開けることは許されていない。都市において、身勝手に鍵がかけられる場所は、便所、試着室、ホテルなど幾つか挙げることができるが、いずれも内部から鍵がかけられている。当然、これらの個室は人間のために用意されているから、内部から鍵が開けられなくてはならない。その一方、コインロッカーにおいて、部屋は事物のために用意されているから、鍵は外部からかけられていて、内部から開けることは許されていない。都市において、外部から鍵をかける場所というのは驚くほど少なく、監獄や精神病院や動物園くらいしか思いつかない。

鍵をかける権利を剥奪する都市

内部からにせよ、外部からにせよ、都市において人々は自由に鍵をかける権利を買っている。裏を返せば、鍵をかける権利がないことを特徴として都市は成立している。都市において、あらゆる扉は開かれていなければならない。高級ブランド店であっても、大衆居酒屋であっても、ナイトクラブであっても、入口はつねに開かれていなければならないし、勝手に鍵を閉める権利が消費者に与えられることはない。解錠される開かれた方向に向かうという意味において、都市は露出狂的な傾向を持っている。もし仮に、都市のなかに鍵がかけられる場所が取り残されるならば、その場所は、人間にとって必ず必要となる本質的な場所に違いない。すなわち、都市に現象する鍵をかけられる場所は、人間の住まうことが垣間みえる陰部だということである。いずれにせよ、都市は人々から鍵をかける権利を剥奪して、あらゆるものを解錠させる傾向があり、あらゆるものを《看守》の視線のもとに置こうとする。看守の視線から逃れて陰部を隠すらめには、対価として金を支払わなくてはならない。

鍵をかける方向と態度

鍵をかける方向によって態度が異なることに注意しなくてはならない。鍵を内部からかけることは、看守の視線を逃れる受動的な態度にすぎないが、鍵を外部からかけることは、みずから看守になる能動的な態度を意味している。便所やホテルという内部から鍵をかける場所は、看守の視線から逃れて用を足したり寝泊りしたりするために、仕方なく対価を払わざるを得ない場所なのだが、コインロッカーという外部から鍵をかける場所は、生活上必要な理由から求められるものではなく、一人ひとりの事物を預けるという能動的な決断が介在している。一人ひとりは、荷物をみずからの意思で箱のなかに閉じ込めなくてはならず、その際、預ける荷物と預けない荷物を選別しなければならない。一時的とはいえ、みずからの所有物の一部を邪魔者としてロッカーのなかに迫害している。したがって、使用中のコインロッカーは、ある個人が荷物を預けようと能動的に動いたということを意味している。言い換えるならば、コインロッカーには必ず《預け親》が存在する。たとえ無意識だろうと、コインロッカーを使用した時点で使用者は能動的に預け親になる。受動的な預け親などおらず、預け荷物という子供を産んだ時点において、能動的な預け親と受動的な預けに荷物としての役割が与えられる。

コインロッカーの歴史

都市におけるコインロッカーの歴史を紐解くならば、東京オリンピックが開催された一九六四年に新宿駅に設置されたのが最初であり、それまでは手荷物預かり所で有人対応していたという。ここから、大型プール、スキー場、大阪万博会場、駅構内などに設置されて普及したらしいが、根本的に問わなくてはならないのは、人々がコインロッカーに預けられるほどの大量の荷物をもって移動するようになった理由であり、発展した消費文化が背景にあったと答えるのが妥当だろう。大衆消費社会が軌道に乗った一九六〇年代、大衆が物を所有しようとする黄金時代において、買った商品を持ったまま更に買物を続けるために荷物を預ける必要が生じた。都市を楽しむ人々の所有物が増加して、とうとうパンクした結果、ワンコインという安価で荷物を預けられるシステムが提供されたのである。これが正しいならば、コインロッカーは余分なものが預けられる場所として誕生したと言える。価値を持っていたものの所有量が増大した結果、ある臨界点を超えると邪魔になる瞬間があり、一時的とはいえ、余計な邪魔者としてコインロッカーに疎外しなくてはならなくなる。要するに、コインロッカーは、食べ過ぎて身動きが取れなくなった都会人の吐瀉物を格納するための汚物庫なのである。

コインロッカーの分析の整理

コインロッカーについて散文的に羅列してみたところで、コインロッカーの特徴を簡単に整理してみよう。第一に、コインロッカーは事物のための場所であり、外部から鍵がかけられるという特徴を持つ。露出症的な傾向を持つ都市において、外部から鍵がかけられる場所の誕生は特筆すべき事柄である。第二に、コインロッカーは都市の誕生以後につくられたという特徴を持つ。便所やホテルは、人間が生きるうえで必要な機能だという理由で仕方なく都市に取り残された陰部だが、コインロッカーは都市を生きる人間が事後的に産み出した陰部である。コインロッカーは、都市以前から存在した内部空間ではあり得ず、都市以後に新しく誕生した内部空間である。第三に、コインロッカーは必ず預け親が存在するという特徴を持つ。預け親のいないコインロッカーは存在しない。預け親は、所有物から邪魔者を選別してロッカーのなかに押し込めなくてはならない。コインロッカーは大切なものを預ける場所ではなく、大切でないものを選別して閉じ込める場所だという点で、住まいの抽斗とは異なる質を持っている。本当に大切なものをコインロッカーに預ける者はおらず、たとえ無意識にせよ、預け荷物を余計なものとしてロッカーに押し込んでいる。

新しい人間像の誕生

ここまでの分析を踏まえるならば、コインロッカーは都市において新しく誕生した特殊な場所だということが明らかになる。とりわけ、預け親が余計なものとして荷物を押し込む場所だという特徴は異質だと言わざるを得ない。預け荷物は、預け親から不要だという刻印を押され、暗闇のなかで寂しく待たなくてはならなず、もし預け親が取りにこなければ死が待っている。こうした《コインロッカー的不安》は都市のなかに生じた新しい不安ではないだろうか。コインロッカー的不安の特徴は、預け親という一個人との関係にのみ由来する不安だという点にある。従来のように、集落から迫害されたら、社会から迫害されたら、という集団から迫害される不安とはまったく異なる。集落や社会から迫害されないためには、空気を読んでうまく立ち振る舞うことができるが、コインロッカーに預けられた荷物にできることは何もないからである。コインロッカー的不安は、預け親が取りに来るか来ないかという点にのみ依拠していて、母親に対する赤ちゃんの関係ように徹底的に受動的なことから生じている。預け親が絶対的な他者であり、もし預け親が取りに来なければ死んでしまう。こうした意味において、一九六〇年代、コインロッカーを当然のように使いこなす人間が誕生したことは、新しい人間像の誕生を意味していると言っても過言ではない。しかしながら、こうしたコインロッカー的不安は脚光を浴びることなく影のなかに潜んでいたから、人々は不安を自覚することとなく大衆消費社会を謳歌していた。そして一九七〇年、事件が起きる。

コインロッカーベイビー事件

一九七〇年二月三日、東京都渋谷区の東急百貨店西館の一階のコインロッカーに嬰児が遺棄され、この事件を皮切りに、コインロッカーに赤ちゃんを捨て去る事件が頻発した。買った商品が買い物の邪魔者となるように、腹に抱えた赤ちゃんが生活の邪魔者になったに違いないが、増え過ぎた所有物を捨てる場所としてコインロッカーが選ばれたのは必然的である。なぜなら、コインロッカーは余計なものを押し込む場所として都市に用意されていた場所なのだから。コインロッカーベイビー事件の根幹にあるのは、母性の喪失というよりも、人々が手軽に迫害できる場所が都市に誕生したことにあるのではないだろうか。増えすぎた所有物は迫害してもよいという価値観が人々に定着したのであり、その綻びがコインロッカーという場所に凝縮された。もし仮に、手荷物預かり所で有人対応していたならば、こんな事件は起き得なかっただろう。手荷物預かり所において、預け荷物は社会全体から見守られているが、コインロッカーにおいて、預け荷物は社会から見放されている。コインロッカーに社会が介在する余地などなく、預け荷物が頼れるのは、薄い無機質な壁と、預け親という一人の母親だけなのである。ともかく、コインロッカーベイビー事件は、コインロッカー的不安を人々に自覚させるだけの強烈なインパクトを持っていたのではないだろうか。

ワンコインの手軽な迫害

コインロッカーベイビーの死によって、コインロッカーを当然のように使いこなす人間、すなわち新しく誕生した都市的な人間は、いずれ自分も余計な者としてコインロッカーに捨てられるのではないかという不安に苛まれた。なぜなら、コインロッカーに邪魔者を追いやることで生活している当事者だったからである。邪魔なものはコインロッカーに押し込めばよいが、もし自分が邪魔なものになればコインロッカーに押し込められてしまう。そして、もし預け親が取りに来なければ死んでしまう。コインロッカーの誕生以前、人々は監視されるばかりで看守になる機会を与えられることはなかったが、コインロッカーの誕生以後、人々は看守になる機会を提供されてしまった。それも、ワンコインという破格な手軽さで。迫害されることに甘んじていた人々は、都市において小さな迫害をすることが可能になった。ワンコインの手軽な迫害者は、それと同時に、ワンコインで手軽に迫害される可能性を知る。こうした意味で、コインロッカーの誕生は都市の意味を大きく変えた象徴的な出来事である。

村上龍『コインロッカー・ベイビーズ』再考

ところで、コインロッカーが誕生して当然のように受容されて以降、コインロッカー的不安に苛まれている人間像が誕生したと述べたが、この特質を見事に表現した小説として村上龍の『コインロッカー・ベイビーズ』を挙げなくてはならない。フロイトとサルトルの匂いを感じられる疾走感に満ち溢れた物語は、新しい世代の誕生を見事に表現していた。コインロッカーに捨てられたキクとハシという二人の赤ちゃんの成長を描いた物語である。キクは外向的な破壊へ走り出し、ハシは内向的に屈折したかたちで破壊に走り出す。物語にはカタカナが散りばめられ、激しくも冷たく中性的な文体には美しさが感じられる。吉本隆明が『ふたりの村上』という書籍のなかで、この物語の特徴を端的にまとめているので参考にしてみよう。

母親に息の根をとめられて、コインロッカーに遺棄され、偶然に蘇生した男の嬰児キクとハシが主人物として指定されたことは、胎児または嬰児のときに〈母性的なもの〉から致命的な障害を加えられ、そこから再び、〈母性的なもの〉の存在なしに生誕したものという二重の生の負荷をもった人間を設定したことになる(p28)

キクとハシは母親の胎内で生まれ、母親の手によって殺され、コインロッカーに捨てられ、母親なき者として偶然に蘇生した。したがって、キクとハシは母を持ちながら、母を持たない存在である。先述したとおり、コインロッカーには預け親が必ず存在する。預け親なしの預け荷物など存在せず、必ず預け親がコインロッカーに入れている場面が連想される。また預けられた荷物を、かつて預け親に所有されていた身体の一部だと考えるならば、妊娠を連想させる役割も担っているだろう。キクとハシは母親なきものとしてコインロッカーに生誕するが、必ず預け親がいるとコインロッカーという卓越した舞台設定によって、母親を追いかけるように仕向けられている。追いかけられる母親は、みずからを産んだ愛すべき対象にもかかわらず、みずからを殺した憎むべき対象として与えられている。キクとハシは人工的に作り出された心臓の音による精神治療を施されるが、心臓の音が鳴り響く生の瞬間、愛する人を殺さなくてはならない。誰からも必要とされなかった憎しみに抵抗することが、そのまま生きる意味に直結しているからである。こうした倒錯した構成が物語を貫いている。

俺達は、コインロッカー・ベイビーズだ

コインロッカー・ベイビーズが印象的なのは、不要なものとして捨てられた人間の不安やら葛藤が鮮明に書かれていることである。コインロッカーに捨てられるというほどまで極致に振り切ったケースは小説でしか起こり得ないかもしれないが、父親不在の母親のもとに生まれて、母親から愛されていないことに気がついたひとは、キクとハシの悩みに共感できるに違いないだろう。キクは言う。「俺たちがコインロッカーで叫び声をあげた時から何も変わってはいない、巨大なコインロッカー、中にプールと植物園のある、愛玩用の小動物と裸の人間達と楽団、美術館や映写幕や精神病院が用意された巨大なコインロッカーに俺たちは住んでいる、壁のてっぺんでニヤニヤ笑っている奴らが俺たちを蹴落とす、気を失って目を覚ますとそこは刑務所か精神病院だ(p129)。「子供を虐待する親への怒りではなく、赤ん坊や子供は弱いものだという当たり前のことが我慢できなかった(p123)。のであり、みずからを弱いものとして扱う全てのものを破壊したい衝動に襲われる。

ハシは言う。「僕だけじゃなかったんだよ、必要とされてる人間なんてどこにもいないんだよ、全部の人間は不必要なんだ、それがあんまり寂しかったから僕は病気になったんだ(p201)。ここから内向的に屈折したかたちで、破壊へと向かう。キクにせよ、ハシにせよ、不必要で余計なものと都市が判子を押した人間が、もし都市のなかに戻ってきたらどうなるかという道筋が、小説というかたちで明らかにされている。ここまできて朧げに見えてくるのは、コインロッカーという舞台が都市の内部に開けられた無数の穴のようなものではないかということである。従来、刑務所か精神病院は都市から逸脱したものを押し出すための場所であった。それは、都市から溢れ出たものを外部へと追い出して、都市から見えなくするための権力であった。当然、刑務所や精神病院は社会という看守によって守られ、鍵を外部から開け閉めする権利は看守に与えられてる。

しかしながら、コインロッカーというのは都市の内部に当たり前の顔をして馴染んでいる。刑務所や精神病院のように、都市から溢れ出たものを都市の外部に追いやるのではなくて、かえって、都市の内部に匿うことに成功する。コインロッカーは、都市から追い出されたものが、都市の内部に還元されるための穴として機能している。このコインロッカーの鍵を開け閉めする権利は、社会という大きな看守などではなく、社会に存在する一人ひとりに与えられている。ここに大きな社会的な権力など介入する余地はなく、都市を構成する各個人が、都市から溢れ出たものをワンコインで小さく迫害する看守になっている。迫害する者は迫害される恐怖を知っている。だからこそ、全員が小さな迫害を恐れてコインロッカー的不安に晒されている。こうした意味において、都市の構成員の全員が小さな迫害者であると同時に、迫害される者でもある。現代の都市は穴だらけなのである。蔓延しているコインロッカー的不安の極致に達すると、キクやハシのように破壊衝動に見舞われるのだろう。そしてこう叫ぶのだ。俺達は、コインロッカー・ベイビーズだ!

季山時代
2024.01.19