血管と自我
二〇二四年一月二十一日
血管と自我
自我と身体部位の関係
二〇二四年一月二十一日。僕は自我と身体の部位の関係を検討していた。自我を担うものは、いつも身体の部位のイメージと関連して現われることに気がついたからである。たとえば、アンジューは皮膚に自我を見出しただろうし、フロイトは脳に自我を見出しただろうし、メルロは肉に自我を見出したのだろうし、ダヴィンチは血液の流れに自我を見出しただろう。もう残された部位といえば、血管くらいしかないのではないだろうかと僕は考えたようである。僕はこう書いていた。
山地大樹
血管=自我
興奮して心臓が脈打って血液の流れが激しさを増すとき、血液が綺麗に流れて循環するのは何故か。血液が指先の脆弱な皮膚を破いて飛び出してこないのは何故か。血圧を噴水に喩えると、血液を二メートル吹き上げるほどの圧力だと言われているが、血圧を押さえつけているのは誰か。血管が血液を封じているのだろうか。もしそうならば、血管こそが自我の源泉ではないだろうか。指先にナイフで切り込みを入れる。血がこぼれ落ちる。二メートルも飛ばない。スパイダーマンの発射する糸のように発射される気がしたというのに。切り込みが浅い。もっと深くナイフを入れて見る。血がこぼれ落ちる。話にならない。二メートルも飛ぶ気配がない。もっと太い血管を切らなくてはならない。頸動脈に切り込みを入れる。血が噴き出す。いい感じである。もっと深く頸動脈を切る。血が発射される。そうか、血管が身体をかたちづくっていたのか。心臓でもない、脳味噌でもない、皮膚でもない。血管だ! 血管こそ自我なんだ! 長い長い自我なんだ! そう気付いたときには手遅れで、僕は死んでいた。
季山時代
2024.01.21

