Archive Walker

蚊と腫れ物

二〇二四年一月二十六日

蚊と腫れ物

蚊に刺されの想起

二〇二四年一月二十六日。僕は右頬に小さなにきびを発見していた。にきびを潰すのはよくないと知りつつも、爪で潰すと、白い脂肪のようなものが出てきて、その後に血が続いた。それを見て、僕は幼少期の夏休みを想い出していた。蝉を取ろうと庭の樹木に向かっているとき、手の甲を蚊に刺されて、夏休みの期間ずっと腫れ続けた想い出である。日に日に大きくなってゆく腫れ物を見て、本当に蚊に刺されたのか不安になった記憶がある。この想い出と、芥川の蜘蛛の小説が重なり合ったのかもしれない。僕はこう書いていた。

蜘蛛の糸・地獄変

山地大樹

蚊を叩き潰す

右目の下に妙な違和感を感じて、手を頬に近づけてみると、一匹の蚊が身体から離れてゆくのが見えた。蚊の腹は膨らんでいたから、どうやら蚊に刺されてしまったようだ。血を吸い取られたことに腹が立ったから、両手の平で叩き潰そうとすると、殺さないでください、お願いします、子供がいるんです、と懇願する弱々しい声が聞こえてきた。なるほど、子供のために危険を顧みずに人間に噛みつくなんて、誇るべき母性の理想なのかもしれない反省して、なにも殺してしまう必要はないだろうと一度は優しさを見せたものの、蚊は部屋から出ていかず、耳元でぷんぷんと羽音を立てるから、あまりの不快さに両手で叩き潰してしまった。掌のあいだに血の痕跡を残しながら、蚊はあっけなく破裂した。みずからの掌に付着した赤い液体を見ると、なんだか不気味に思えてきて、蛇口を捻り、石鹸で綺麗に洗い流した。蚊は、口を開けた排水管へと吸い込まれていった。

右頬全体が腫れあがる

しばらくして右頬が痒くなってきた。鏡を見ると、右目の下あたりが赤く腫れあがっている。なんだ蚊の仕業かと憎らしく感じられると同時に、懇願する蚊の哀しげな顔が想起されて心臓がきゅっとなったので、ぼりぼりと掻き毟ることで忘れようとすると、小さく出血したようで、小さな赤色の点が肌のうえに浮上した。その点を軽く指先で擦ってみると、赤い点は赤い一筋の線へと延長され、まるで血の涙が流れたようになった。蚊を潰したときの掌の液体を想起して、ぞっとした感情が襲ってきた。殺さないでと懇願した蚊は、血の涙を流していたのだろうか。痒みは静止することを知らず、何度も掻き毟るうちに頬の腫れ物は徐々に膨らんで、数日で右頬全体を覆うほどになり、右目が開けられなくなった。こんな顔では恥ずかしくて街も歩けないから、医者を家に呼び寄せて診てもらうが、こんな症状は見たことないと医者は首を捻らせて、抗生物質の塗り薬を置いて帰っていった。

藪医者の針で刺す治療法

塗り薬をいくら塗っても治る気配はなく、痒みは増し、腫れ物は膨らみ続け、とうとう顔全体が腫れ物になってしまった。顔全体が林檎ようになり、目は開けられずに視覚が奪われ、鼻孔は圧迫されて嗅覚が奪われ、口はかろうじて開けられる程度で呼吸するのがやっとという状態、話すことはままらなかった。ただ、耳だけは健全に機能しているようで、以前より音には敏感になった。なにやら大変なことが起きたようだと、医者の噂を聞きつけた街の人達が押し寄せてきたが、腫れあがった顔が滑稽なのか、くすくすと嘲笑ばかりが聴こえてくるから、帰ってくれ、見世物じゃないんだ、と残された身体を使って街の人を追いやった。それから数日後、治療法を教えてやろうと一人の藪医者が訪れた。古びた皮鞄から一本の針を取り出して、これで蚊に刺されたところを刺すならば、膿がすべて溢れ出して治るじゃろうと言って、囲炉裏の炎で針を焼いて消毒してから、右目の下をぷすりと刺したが、少しばかりの膿が滲み出すばかりで治ることはなかった。藪医者は、これは蚊に刺されではない、蚊の呪いじゃ、とぶつぶつ呟いて帰っていった。

家主に追い出される

藪医者が残した蚊の呪いという言葉が印象に残った。なるほど、懇願する弱々しい声を叩き潰したことが悪だったのだろうか。ただ、そんなこと誰しもがやっている悪ではないだろうか。小さいものが大きいものに潰されるのは自然の摂理ではないだろうか。そんなことを考えているうちも、腫れ物はどんどん大きく膨らみ続け、ついには身体全体が一つの林檎のようになってしまった。もう、移動することもままならない。このまま死ぬのを待つのだろうか。このとき、がらがらと扉を開く音がした。誰かが助けに来たのかと期待したが、なにやら、こんな人間かも分からない梅干しみたいなやつに部屋を貸し続けても仕方がないではないか、もう次の住人を入れた方がいいのではないか、でも家賃は貰ってしまっているではないか、と揉める声が聴こえる。声からすると、家主と家主の友人で間違いない。もう二十年分の家賃を先払いしているはずだが、腫れ物に家を貸し続けることに違和感を感じたらしく、追い出すか追い出さないかで揉めているようだ。しばらくして話はついたらしく、すまんなあ、長いことありがとよ、と家主は呟いて、腫れ物をころころと転がして、部屋から運び出す作業を開始した。

粗大ゴミ処理場のプレス機

やめてくれ、転がさないでくれ、と懇願しながらも、痒くて仕方がなかった箇所が床の触れることで微かな快感を感じた。痒いところに手が届くという幸福は、この世のどんな幸福にもかなわないことを知った。部屋から追い出され、階段のうえを転がされ、軽トラックのなか運び込まれ、二十分ほどして何処かに到着した。がしゃがしゃと鳴り響く機械音から推測すると、粗大ゴミ処理場に運び込まれたようである。きっと捨てられるに違いない。通常なら回転式破砕機をつかいますが、こんな大きな腫れ物は入らないので、機械式プレス機で潰してしまいましょう、大丈夫、一瞬でぺちゃんこになりますから、と粗大ゴミ処理場の労働者が述べると、家主はお願いしますと金を払った。途端に恐ろしくなり、殺さないでください、お願いします、と叫んでみるのだが、口が閉ざされているためだろうか、微かに息が漏れるばかりで声がでない。音が聴こえるだけで何もできないというのは、この世界でもっとも弱い存在の特徴である。ベルトコンベアに乗せられて、プレス機の板が左右から迫ってくる気配がする。もうすぐ死ぬ。ぺしゃんこになって、洗剤で綺麗に洗い流されるのだろう。

季山時代
2024.01.26