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試験管と彫刻の涙

二〇二四年一月二十九日

試験管と彫刻の涙

理科室のイメージ

二〇二四年一月二十九日。僕は、机に向かって座り続けていたのだが、ドリップしたカフェインレスコーヒーの滴を涙のようだと思ったのだろう。また、理由は不明だが、理科室のイメージが僕の頭から離れなかったことを指摘しておきたい。筒井康隆の描く理科室のイメージだろうか。僕はこう書いていた。

時をかける少女

山地大樹

涙を流す彫刻

ある雨の日、美術館の庭の彫刻が涙を流していた。この彫刻の過去も苦悩もなにも知らないが、苦しいのか悲しいのか、なにかしらの感情が胸のうちを渦巻いて溢れてきたのだろう。彫刻の気持ちを想像しようとするが、人間ならともかく、彫刻の気持ちなんて検討もつかない。それでもなにか出来ることはないかと、分かるよ、と声をかけながら手拭いを顔に当てると、彫刻は少しだけ微笑んだ気がした。所詮、人間は彫刻の気持ちなど知ることができないと思っていたが、人間と彫刻のあいだにの深い溝のうえには、小さな優しさで橋をかけることが出来るのかもしれない。けれども彫刻が泣き止むことはなく、しばらくすると、涙は手拭いのすべてを濡らして、飽和した手拭いの端から滴がこぼれ落ちはじめた。涙は手拭いの端から、ぽつぽつと地面に吸い込まれていった。地面に消えてゆく涙を見ていると、なんだか涙が勿体無い気がしてきたから、小さな虫を捕まえようと持ってきていた試験管の蓋を開けて、彫刻の涙を溜めてみることにした。

試験管に涙を溜める

手拭いを彫刻の顔から外して左手にコルクの蓋を持ち、右手の試験管で彫刻の涙の採取を始めることにした。彫刻は驚いてこちらを見ていたが、抵抗をすることなく涙を流し続けていた。顔を流れる涙が顎まで伝ったところに、試験管を待機させると、鍾乳洞を滴り落ちる水のような澄んだ涙が一滴、試験管の側面を伝ってゆく。その流れゆく一滴の涙に、雲の隙間から顔を覗かせた太陽の光が射しこみ、きらきらと美しい輝いていた。試験管に数滴の涙が流れ落ちて、四分の一ほど溜まったところで彫刻は泣きやんだ。もう大丈夫だよ、という彫刻の声が聴こえてきたから、よかった、なにもしてあげられなくてごめんね、と話しかけると、彫刻は沈黙の空気に囚われたように静止して動かなくなった。夢か現実か分からないまま、涙の溜まった試験管を家に持って帰った。

アルコールランプと試験管

家の古びた机の前に腰掛けて、試験管のなかの液体を見ていると、なんだか綺麗な宝石のようで癒された。彫刻の苦悩の結晶だからだろうか。木製の窓枠を通して入る光が試験管の涙に射しこみ、虹のような影を落とすと嬉しい気分になり、みずからの顔が涙の表面に反転して映し出されると悲しい気分になったりした。この試験管を数日にわたって飾っていたのだが、たとえコルクの蓋をしていても次第に蒸発してしまって、徐々に少なくなっていく彫刻の涙を見ていると、自然に蒸発して完全になくなるより先に、みずからの手で蒸発させてしまうべきだという考えが浮かんだ。彫刻の涙を保存しておくよりも、その涙を供養したほうがいいのではないか。そこで、古びた抽斗からアルコールランプを取り出して机に置き、蓋を外し、彫刻の顔を想いながら、今から僕と君にとって大切なことをするよと小さく呟いた。錬金術の儀式のようで、好奇心が胸を覆い尽くした。

アルコールランプと試験管

アルコールランプの先端、もわもわした白い毛にマッチを近づけてゆくと、ぼうっという音と同時に橙色の光が小さく灯った。数年前の誕生日ケーキの蝋燭を想い出して懐かしい気分になりながら、涙が入った試験管を右手でそうっと近づけてゆく。少しだけ熱い。二〇秒程の沈黙が続いたあと、彫刻の涙はボコボコと泡を立てて沸騰して、試験管のなかは空洞に近づいていった。彫刻の涙が水蒸気になって空気に溶解してゆく。彫刻の苦悩を想いながら、大きく深呼吸してみると、彫刻の気持ちが分かる気がした。彫刻がなにを感じて泣いていたのかは分からないが、確かに彫刻の感情を共有できているような不思議な気分だった。ねえ、君の涙は世界中の空気のなかに溶け込んだよ、と呟いてアルコールランプに息を吹きかけて蓋をした。優しい灯火が消えて、暗い部屋が現われて、一人ぼっちになったから、少しだけ悲しい気分に襲われて涙が出てきたが、彫刻の涙が溶解した空気を吸っていると考えると、心が休まり涙は止まった。この涙も自然に蒸発して消えてゆく。きっと世界中の空気には、知らない人の涙が混ざっているのだろう。

季山時代
2024.01.29