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性欲処理人形の制作秘話 生成AI時代の制作論他

日々の記録

依頼者様へ。お世話になっております。二〇二四年度、二月一日から二月五日までの調査報告になります。ご参考いただければと存じます。今後ともよろしくお願い申し上げます。

二〇二四年二月一日

水道管と地球

水道管の水漏れ

二〇二四年二月一日。僕は、水道管の水漏れを直さなくてはいけない、という友人の言葉を想起していた。水道管から、ぽつぽつと数滴の水が垂れ続けているようである。このイメージがレオナルド・ダヴィンチの大洪水のイメージと結びついたのだろう。そういえば、ダヴィンチは人間の血管は大地の水脈と類比しながら、大地の生命の動力は水の循環であると考えて終末思想にたどりついた。僕が描く文章を見ると、二〇二四年一月二十一日の『自我と血管』の記録との関連も考えられる。多分、血管という自我の小さな傷によって、未知なるものが噴出して死ぬという考え方である。僕はこう書いていた。

レオナルドの幻想―大洪水と世界の没落をめぐる

山地大樹

水道管と地球

水道管が破裂した。抑えても抑えても水が噴き出して止まらない。水道管は地球の血管だから、このままだと地球は乾涸びて死んでしまう。

誰か、助けてください!

叫び声は虚しく空へと溶けてゆく。通行人は見て見ぬ振りをして、足早に通り過ぎてゆく。なぜ誰も助けてくれないのか。地球に生かされているというのに、いざ地球の危機になったら知らぬ振り、あまりに非情ではなかろうか。次第に水が溢れかえって、地球は水浸しになってゆく。家屋は倒され、人々は流され、大洪水が皮膚を覆い尽くす。通行人は無表情で流されてゆく。地球の皮膚が水浸しになる一方、地球内部の水はなくなってゆく。乾燥した内部と湿潤した外部。水道管の小さな傷で、世界は水で満たされる。大洪水は鎮まって、一つの静謐な球だけが残る。

季山時代
2024.02.01

二〇二四年二月二日

性欲処理人形の制作秘話

構成的なものと不気味なもの

二〇二四年二月二日。僕が書いている文章を見ると、三人称と一人称が混在して読みにくくなっているのが分かる。文章が完全に綻んでいる。僕は、田淵を三人称視点から観察したり、田淵のなかに入りこんだりして、ぐちゃぐちゃである。しかも、物語に明確な論理的帰結もない。こういう殴り書きの文章を書くのは珍しいが、なにか意味があるに違いない。それにしても、最近の僕はよく分からないままに不気味な文章を書いている。たとえば二〇二四年一月二十二日の『コンドームシティ』では澤田直宏の妄想を題材にしていた。このタイプの不気味さは、三人称視点を設定することによってはじめて生じるのかもしれない。主人公の名前を設定した時点において、三人称視点がおのずから設定され、ホラー的な要素が生まれる基盤となるのだろう。よく考えると、推理物語のはじまりであるエドガー・アラン・ポーにおける構成的なものの影響があるのかもしれないし、フロイトの反復強迫的な不気味なものの影響もあるのかもしれない。僕はこう書いていた。

ポー名作集

笑い/不気味なもの

山地大樹

平凡な男の日常

ある男が、並外れて美しい性欲処理人形を制作した話を耳にした。その男の名前は田渕修一という。田渕は独身の会社員であり、生きゆくのには困らないほどの平均的な収入を得ていたが、友人関係も少なく、食事に興味もなく、酒も煙草もやらないため、貯金は溜まるばかりであり、裕福といえば裕福な暮らしであった。唯一の趣味といえば映画をみることであったが、それも趣味というほど熱中できるものではなく、退屈な毎日を過ごしていた。田淵には一般の成人男性程度の性欲が備わっていたが、彼女はおらず、また彼女をつくるほどの気力もなかったのは、彼女をつくるまでの煩わしい会話が面倒に感じたからである。田渕という男が、現代を生きる平凡な男であるのは明らかであった。

性欲処理人形大全というカタログ

ある平日の仕事帰り、田淵は郵便受けに一冊のカタログが投げこまれているのを発見した。少しばかり分厚いカタログの表紙には、洗練されたポップ体で『性欲処理人形大全』と書かれていた。田淵は、その怪しげなカタログを読まずに捨ててしまおうと、備え付けられたチラシ専用のごみ箱に入れたものの、性欲処理人形大全という言葉が頭のなかで響きを失わないから、ごみ箱から拾い出し、中身を確認することを決めた。周囲に見られないようにカタログを抱えてエレベータに乗り込み、五階の自分の部屋にたどり着くやいなや机に向かってカタログを開くと、一頁につき一人の可愛らしい人形が椅子に座ってこちらを眺めていて、小さな解説が付けられていた。彼女たちは、裸ではなく普通に服を着ている小さな人間の姿をしているが、百科事典のように並ぶ人形にはエロティシズムの欠けらもなく、いわば漂白された人間のようであり、なるほど精巧につくられているものだと田淵は感心した。

NO.42

カタログをパラパラとめくりながら、《NO.42》と書かれた人形の写真の頁で手を止めた。そこには、田淵が理想としている女性像がそのままが映されていたからである。これまで過去に出会った女性の誰よりも、これから未来に出会うであろう女性の誰よりも、明らかに魅力的な女性であるのが一瞬にして確信された。黒い滑らかなワンピースを身につけて微かに微笑んでいる人形は、生きている天使のような輝きを放っていた。とりわけあらゆるものを吸いこむ穴のような黒目の深さが魅惑的であり、全存在がその黒い穴に惹きつけられてゆく感覚に危険を感じた田淵は、無意識のうちにみずからの右頬を思い切りつねっていた。生物学的な防衛本能だった。痛みで自我を保たなければ、黒目に飲み込まれてしまうと本能が感じとったのである。《NO.42》の黒目は、なにか世界が変様して蕩けてゆく合図のようでさえあった。言えしれぬ恍惚と不安を感じた田淵は、このカタログを捨てなければならないという強迫観念を感じて、カタログを皮鞄のなかに入れて外出することにした。

母なるコンビニまでの道

夜十一時、田淵がコンビニに向かっていたのはカタログを捨てるためであった。自分の家の近くのコンビニではなく、二つ隣の駅のコンビニまで足を伸ばしていた理由は、生活圏内にこのカタログを捨てたくなかったからである。自分の知らないところに廃棄しなければ、廃棄したものが再帰するのではないかという不安が胸を占めていたのである。コンビニに向かって街頭の少ない夜の道を足早に歩いていると、道路の白線がやけに白く感じられたり、信号機が無駄に点灯しているような気がして、鞄のなかのカタログがナイフのような違和感が襲ってきた。田淵はナイフを振りまわして無差別殺人を遂行した殺人犯の姿を想像して、自分が悪者になったような気がした。どれくらい歩いただろうか、しばらくして煌々とした光が見えてきた。夜の住宅街に佇むコンビニは、場違いなほど広い駐車場が備え付けられいて、普段なら無駄だと感じられる駐車場の広大さに、田淵は不思議な安心感を覚えた。深夜のコンビニは母親の子宮であり、深夜のコンビニの光は母親の羊水であった。

コンビニの自動人形

ごみ箱はコンビニの屋外に並べられていた。田淵はカタログを捨てようと考えたが、家庭ごみの持ち込みはかたくお断りいたします、という赤い太文字に気圧されて、とりあえずコンビニに入店することにした。自動ドアが開いて、いらっしゃいませという店員の声が聞こえてくる。女性店員の声は、まるで自動音声のように無機質に乾燥していた。声を発した店員は死んだ有機物だろうか、あるいは生きた無機物だろうか、発声するだけの自動人形として育てられたに違いない。コンビニのなかを見渡すと三人の客がいた。弁当を選んでいる中年サラリーマンと、コンドームを探しているカップルである。全員が人形みたいに死んでいる最中に見えた。ご飯を食べるだけの人形と、セックスするだけの対人形。きっと、プラスチックでできていて、手を触れたら冷たいのだろう。

コンビニのレジにて《NO.42》

田淵はコンビニのなかを彷徨いながら、適当なパンを二つ手にとった。別に食べたい訳ではなかったが、なにかしら購入すればカタログを捨てる権利が手に入ると考えたからである。サラリーマンを横目にレジに向かうと、いらっしゃいませと女性店員の声に誘導された。レジのデスクに手元の二つのパンを出すと、女性店員は慣れた手つきでバーコードを読み取り、レジ袋はご利用になりますかと乾いた声で尋ねた。お願いしますと早口に答えた田淵は、店員の顔をちらりと見て戦慄した。目の前に佇む女性店員が、カタログに載せられていた《NO.42》その人だったからである。その黒目のあまりの美しさに時間が凍結した気がしたように感じられた。田淵の身体は凍りついたようにうまく動かなくなり、冷汗が噴き出してきた。動揺している田淵と対照的な冷静さで、女性店員はパンをそそくさと袋に詰めてから、243円になりますと口にした。一体この女性はなんなのだろうか。みずからが『性欲処理人形大全』に載せられていることを知っているのだろうか。田淵は試しに番号を呟いてみることにした。はたして女性店員は反応するのだろうか。

NO.42 ……。

女性店員は魅力的な黒目で田淵を一瞥して、流れるような仕草で背後のタバコを用意したあと、こちらでよろしかったでしょうかと尋ねた。その洗練された流れ作業のはやさから、はい、という返事が田淵の口から勝手に飛び出すと、水色の箱がレジ袋のなかに吸い込まれていった。意識がはっきりとしないまま、財布から千円札を会計を済ませてコンビニを出ると、ありがというございましたという声が弾けて消えていった。意味もなく袋のなかを確認すると、二つのパンと、メビウス・エクストラライトと書かれた水色の箱が入っていた。田淵は皮鞄からカタログを出して、レジ袋に移し替え、パンと煙草ごと燃えるゴミのごみ箱へと突っ込んだ。これ以上、奇怪な出来事に関わりたくなかったのは、もっと法外な出来事が起こりそうで怖かったからである。法外な出来事は、ぬめぬめした蛙のように跳びあがるのだろう。

意識が完全に失われた帰路

コンビニを背にして急ぎ足で家に帰る。街頭がやけに暗く見えて怖い。暗闇のなかを歩いていると、どれくらいの時間歩いているのか、どのような場所にいるのか、まったく分からなくなってきて、次第に、夢のなかにいるような心地よい気分が田淵を飲み込んでいった。まるで、別の人格が田淵に覆いかぶさったかのようである。その帰路において、田淵が何処で何をしていたか知る者はいない。田淵が夢遊状態のままに彷徨っていたのに気が付いたのは、家のあるアパートに到着したときである。それまでの記憶がすっぽりと抜け落ちていたが、田淵は不思議と軽快な気分を感じていた。ぬめぬめした快感の足湯に浸かっていたかのような気分である。この心地よい気分に包まれたなかで、田淵は、一階の郵便受けに一冊のカタログが投げこまれているのを発見した。鳥肌が溢れ出して、寒気が背中を走り抜けた。あのカタログに違いない。

性欲処理人形、あるいは死体

郵便受けのカタログを手に取ると、洗練されたポップ体で『性欲処理人形大全』と書かれていた。捨てたばかりのカタログがまた届いていることに驚き、見なかったことにして郵便受けに戻した。エレベータの乗って五階までたどり着き、そして自宅の扉を開けたまさにその時、玄関に一つの人影が立っているのが見えた。その人影の美しい黒い瞳がこちらを見ていた。《NO.42》だ! 恐怖と安堵が混じったぐちゃぐちゃな感情が田淵に襲いかかった。田淵は恐怖に怯えながら落ち着いて話しかけてみるが、その女性はまったく動くことはなかった。完全に人形なのである。その人形の足元には「ご購入有難うございます、またの機会をお待ちしております」という伝票が貼り付けられていた。田淵の筆跡だった。田淵が人形の手をそうっと握ってみると、人形はまだ微かに暖かく、さっきまで息をしていたように感じられた。田淵は人形の服を脱がせて、ずぼんを脱ぎ捨てた。

季山時代
2024.02.02

二〇二四年二月三日

機械の逆説

性欲処理機械が人間に及ぼす影響

二〇二四年二月三日。僕は前日に続いて性欲処理機械なるものに心惹かれていた。僕の書いた文章を見ると、性欲処理という機能的な目的を享受することが主題なのではなく、性欲を処理するために生じた機械が、今度は人間の性欲を触発して膨張させるという効果が主題なのだろう。ルロワ=グーランの技術論フロイトの性欲理論に結び付けることができるだろうか。僕はこう書いていた。

身ぶりと言葉

山地大樹

機械の逆説

ある平凡な男が性欲処理機械を購入した。その結果、毎日のように自慰行為を行なうことになり、男はほとんど精子製造機械として生きることになった。機械が人間を機械にするというのはよく言われるが、その根幹にあるのは快感の膨張である。平凡な男の性欲が、性欲処理機械によって膨張したということである。性欲処理機械は性欲を処理するという目的のために開発されたが、その結果、出されるべき精子の数が増えているという逆説が生じている。すなわち、性欲処理機械は性欲増幅装置へと変貌している。一般に、機械というのは目的に沿って機能的に制作されるだが、結局のところ、使用者の快感を膨張させることに寄与することしかできない。

季山時代
2024.02.03

二〇二四年二月四日

機械と人間

第四の境界

二〇二四年二月四日。僕は、古本屋で機械と人間の境界について書かれた本を見つけて、適当に流し読みをしていた。機械と人間の境界、すなわち第四の境界はどこへ向かうのだろうか。僕が各文章を読むと、永遠を生きる完全な機械にとって、死を抱えた不完全な人間が邪魔であることが明らかにされている。結局のところ、機械が人間に使われるという前提が崩れない以上、完全な機械というのは出現しない、あるいは出現しても活用させることはないのだろう。僕はこう書いていた。

第四の境界

山地大樹

機械と人間、永遠と有限

もし完全な機械があるならば、それは永遠に動き続けるだろう。その完全な永遠の機械に対して、不完全な人間は必ず死を迎える。完全な機械の永遠の生と、不完全な人間の有限な生が対比される。したがって、もし完全なる機械が完成したならば、その機械は人間の不完全さを際立たせてしまう。機械は永遠の生を意味するがゆえに、有限な人間の死を意識させる。だから、人々は完全な機械を望まない。数々の小説が、完全な機械による人間への反逆を描くのは、不完全な人間の死を意識させるためには、完全な機械を用いることが有効だと知っているからである。完全な機械への嫌悪感は人間の死に由来するものなのである。そこで人間は完全な機械へ怯えると同時に、完全なる機械を人間に近づけて死を設定しようとしたり、完全なる機械と融合しようとする。要するに、人々は死への不安から逃げるために機械を利用するのである。

機械と人間の接点から

死への不安に耐えられない人々は、完全な機械を生物に近づけて殺そうとするか、あるいは完全な機械との融合を狙って死への不安から逃亡しようとする。前者の場合、機械を人間のように殺すという点で分かりやすいが、機械に死を設定するのは時代錯誤である。機械の寿命をわざと縮める試みなど、文学的な主題にはなり得ても現実的な主題にはなり得ない。そこで、完全な機械との融合という後者の場合に進むだろう。人々は完全な機械そのものではなく、完全な機械との同一化を望みはじめる。完全な機械の永遠性の力を借りることで、不完全なる人間の有限性を解消しようとする。ここにおいて、人間の有限性は限りなく延長されて永遠に近づいてゆく。自動車、飛行機、情報機械、これらは人間と結びついて、死ぬことなき永遠の世界へと人間を羽ばたかせるだろう。ここで重要なのは、機械と人間との結びつきがう失われないことである。たとえ糸屑程の小さな結びつきであれ、人間と機械の接点が途切れると、完全な機械と不完全な人間の対比が行われ、死の匂いが漂いはじめるに違いない。完全自動運転の死の匂いは、機械と人間の接点が完全になくなることに由来しているのではないだろうか。無人は完全であるが、その完全性は死を呼び寄せるだろう。

季山時代
2024.02.04

二〇二四年二月五日

生成AI時代の制作論

生成AIと文学

二〇二四年二月五日。僕は生成AIに小説を書かせてみていたが、ある程度の質が担保されていることに驚きを隠せなかった。それらの小説の質がよいだけに、生成AIが書いた小説が氾濫することを危惧したのだろう。僕が書く文章を見ると、情報が氾濫することを止めるのは不可能であるから、情報が氾濫したあと、どの小説が生き残るのかを考えなくてはならないという主旨が書かれている。情報の信頼性を担保するのは著者であるという主張は時代錯誤に見えるが、そういう時代がやってくるのかもしれない。僕はこう書いていた。

隠喩としての建築

山地大樹

生成AIについての未来予測

生成AIについて想うことを簡単に考えてみたい。まず第一に、情報が完全に飽和するということである。生成AIが書いた文章や写真などが永遠に増え続け、情報空間に大量に流入するだろう。図書館や美術館といった現実的な場所は有限であるが、情報空間に限っては無限の容量があるために限界を知らずに膨大する。こうした事態を迎えても忘れてはならないのは、情報が人間に使われることである。たとえ生成AIが書いた文章でも、それを読むのは人間であり、むしろ人間が読めない文章は読まれなくなる。生成AIがつくった情報群は人間によってふるいにかけられて、分かりやすい情報ばかりが読まれることになるに違いない。問うべきは、分かりやすいものばかりが受容されるなかで、分かりにくい情報、あるいは未知なる情報の行方である。文学、哲学、あるいは芸術などが未知なる情報の射程になるだろう。

生成AIは欲望を喚起できるか

分かりやすい情報だけが情報空間で生き残ると述べた。当然、人間がまったく理解できないような情報は最優先で淘汰されるのは間違いない。問題は、人間が分かりそうで分からないような絶妙に難解な情報、未知なる情報が生成された場合である。たとえば、読むことは可能であるが、読み切るのには精神力と体力が削られるような哲学的な文章はどうだろう。果たして、哲学書をはじめて読んだときに感じられるような、右も左も分からないままに読み続けようとする意思を、生成AIが書きあげた文章に向けることが出来るだろうか。生成AIが書いた分厚い哲学書を読みたい読者はいるのだろうか。哲学書を読んだことがある人なら分かるだろうが、その読書体験の根幹にあるのは、難解なテクストだがこの哲学者なら大切なことを言っているに違いないという信頼である。未知なるものに立ち向かうときに必要なのは、何が書かれているかではなく、誰が書いているかも重要なのである。なぜなら、人間の欲望は未知なる他者に向かうのだから。

生成AI時代の信頼性

難解な文章の読書体験が著者への信頼によって成立しているように、未知なる情報を受容したいという欲望は、情報の創り手への信頼性なくして成立しない。だから問題は生成AIが信頼できるかということに尽きる。確かに、既知なる情報を収集して飛躍させる能力において人間は敵わない。生成AIは、無限な未知なる情報を瞬時に生成することができる。しかしながら、迅速に無限な情報を生成できるという能力ゆえに、その豊潤さゆえに、生成AIが生成する未知なるものは信頼しにくい。なぜなら、その一つの未知なる情報は、生成AIが創り出すことができる無限の情報のうちの一つに過ぎないと意識してしまうから。生成AIは無限の可能性を即座に制作可能な存在であるがゆえに、他の可能性をつねに留保してしまう点が信頼性を揺るがせる。

それに比べて人間は貧しい。人間が未知なるものを制作するときには、他の可能性をかなぐり捨てて一つの可能性にかける。ヴァレリーは『エウパリノス』のなかでこう語る。「建築をする人間、何ものかを制作する人間の行為は、その行為によって変えられる実質の《すべて》の性質など気にかけず、それらのうちの幾つかだけを考慮に入れる」(岩波文庫-p85)。要するに、未知なるものを制作する人間は、すべての性質を考慮することはできず一つのことに固執してしまう。生成AIは無限で豊潤な存在であるのに比べて、制作する人間は偏狭で貧しい存在だが、その貧しさゆえに信頼できる。なぜなら、他の可能性を全力で捨てながら前進しているからである。生成AIにとって捨てたものを拾うのは簡単であるが、制作する人間にとって捨てたものは簡単に拾えない。人間は、死という時間の制約があるから、すべてを拾うことなどできない。その制作する人間の貧しさにこそ、この人間は何を考えてつくったのだろう、と人々の欲望を喚起させるなにかがある。

生成AIの可能性

生成AIが情報空間に膨大な情報を流入させるならば、何が書かれているかではなく、誰が書いているかが重要になってくるに違いない。既知なるものではなく、未知なるものに関しては、テクストから作品への向き直しが起こると予測する。重要なことは、その未知なるものを信頼できる他者が制作したかどうかである。情報が飽和しすぎた結果、大衆はどの情報が正しいものかがまったく分からなくなるから、結局のところ、情報の信頼性を人間に委ねることになるだろう。もし制作する人間が生成AIを使用する可能性があるならば、生成AIが生成した情報うちの幾つかだけを考慮に入れて制作に向かうことだろう。生成AI時代に制作する人間には、編集能力が求められるかもしれない。とはいえ、無尽蔵にひろがる情報をすべて呑もうとすると、溺れて一歩も動けなくなるだろう。いつも通り、偏狭さを武器にして走り続ければよい。

季山時代
2024.02.05