性欲処理人形の制作秘話
性欲処理人形の制作秘話
構成的なものと不気味なもの
二〇二四年二月二日。僕が書いている文章を見ると、三人称と一人称が混在して読みにくくなっているのが分かる。文章が完全に綻んでいる。僕は、田淵を三人称視点から観察したり、田淵のなかに入りこんだりして、ぐちゃぐちゃである。しかも、物語に明確な論理的帰結もない。こういう殴り書きの文章を書くのは珍しいが、なにか意味があるに違いない。それにしても、最近の僕はよく分からないままに不気味な文章を書いている。たとえば二〇二四年一月二十二日の『コンドームシティ』では澤田直宏の妄想を題材にしていた。このタイプの不気味さは、三人称視点を設定することによってはじめて生じるのかもしれない。主人公の名前を設定した時点において、三人称視点がおのずから設定され、ホラー的な要素が生まれる基盤となるのだろう。よく考えると、推理物語のはじまりであるエドガー・アラン・ポーにおける構成的なものの影響があるのかもしれないし、フロイトの反復強迫的な不気味なものの影響もあるのかもしれない。僕はこう書いていた。
山地大樹
平凡な男の日常
ある男が、並外れて美しい性欲処理人形を制作した話を耳にした。その男の名前は田渕修一という。田渕は独身の会社員であり、生きゆくのには困らないほどの平均的な収入を得ていたが、友人関係も少なく、食事に興味もなく、酒も煙草もやらないため、貯金は溜まるばかりであり、裕福といえば裕福な暮らしであった。唯一の趣味といえば映画をみることであったが、それも趣味というほど熱中できるものではなく、退屈な毎日を過ごしていた。田淵には一般の成人男性程度の性欲が備わっていたが、彼女はおらず、また彼女をつくるほどの気力もなかったのは、彼女をつくるまでの煩わしい会話が面倒に感じたからである。田渕という男が、現代を生きる平凡な男であるのは明らかであった。
性欲処理人形大全というカタログ
ある平日の仕事帰り、田淵は郵便受けに一冊のカタログが投げこまれているのを発見した。少しばかり分厚いカタログの表紙には、洗練されたポップ体で『性欲処理人形大全』と書かれていた。田淵は、その怪しげなカタログを読まずに捨ててしまおうと、備え付けられたチラシ専用のごみ箱に入れたものの、性欲処理人形大全という言葉が頭のなかで響きを失わないから、ごみ箱から拾い出し、中身を確認することを決めた。周囲に見られないようにカタログを抱えてエレベータに乗り込み、五階の自分の部屋にたどり着くやいなや机に向かってカタログを開くと、一頁につき一人の可愛らしい人形が椅子に座ってこちらを眺めていて、小さな解説が付けられていた。彼女たちは、裸ではなく普通に服を着ている小さな人間の姿をしているが、百科事典のように並ぶ人形にはエロティシズムの欠けらもなく、いわば漂白された人間のようであり、なるほど精巧につくられているものだと田淵は感心した。
NO.42
カタログをパラパラとめくりながら、《NO.42》と書かれた人形の写真の頁で手を止めた。そこには、田淵が理想としている女性像がそのままが映されていたからである。これまで過去に出会った女性の誰よりも、これから未来に出会うであろう女性の誰よりも、明らかに魅力的な女性であるのが一瞬にして確信された。黒い滑らかなワンピースを身につけて微かに微笑んでいる人形は、生きている天使のような輝きを放っていた。とりわけあらゆるものを吸いこむ穴のような黒目の深さが魅惑的であり、全存在がその黒い穴に惹きつけられてゆく感覚に危険を感じた田淵は、無意識のうちにみずからの右頬を思い切り抓っていた。生物学的な防衛本能だった。痛みで自我を保たなければ、黒目に飲み込まれてしまうと本能が感じとったのである。《NO.42》の黒目は、なにか世界が変様して蕩けてゆく合図のようでさえあった。言えしれぬ恍惚と不安を感じた田淵は、このカタログを捨てなければならないという強迫観念を感じて、カタログを皮鞄のなかに入れて外出することにした。
母なるコンビニまでの道
夜十一時、田淵がコンビニに向かっていたのはカタログを捨てるためであった。自分の家の近くのコンビニではなく、二つ隣の駅のコンビニまで足を伸ばしていた理由は、生活圏内にこのカタログを捨てたくなかったからである。自分の知らないところに廃棄しなければ、廃棄したものが再帰するのではないかという不安が胸を占めていたのである。コンビニに向かって街頭の少ない夜の道を足早に歩いていると、道路の白線がやけに白く感じられたり、信号機が無駄に点灯しているような気がして、鞄のなかのカタログがナイフのような違和感が襲ってきた。田淵はナイフを振りまわして無差別殺人を遂行した殺人犯の姿を想像して、自分が悪者になったような気がした。どれくらい歩いただろうか、しばらくして煌々とした光が見えてきた。夜の住宅街に佇むコンビニは、場違いなほど広い駐車場が備え付けられいて、普段なら無駄だと感じられる駐車場の広大さに、田淵は不思議な安心感を覚えた。深夜のコンビニは母親の子宮であり、深夜のコンビニの光は母親の羊水であった。
コンビニの自動人形
ごみ箱はコンビニの屋外に並べられていた。田淵はカタログを捨てようと考えたが、家庭ごみの持ち込みはかたくお断りいたします、という赤い太文字に気圧されて、とりあえずコンビニに入店することにした。自動ドアが開いて、いらっしゃいませという店員の声が聞こえてくる。女性店員の声は、まるで自動音声のように無機質に乾燥していた。声を発した店員は死んだ有機物だろうか、あるいは生きた無機物だろうか、発声するだけの自動人形として育てられたに違いない。コンビニのなかを見渡すと三人の客がいた。弁当を選んでいる中年サラリーマンと、コンドームを探しているカップルである。全員が人形みたいに死んでいる最中に見えた。ご飯を食べるだけの人形と、セックスするだけの対人形。きっと、プラスチックでできていて、手を触れたら冷たいのだろう。
コンビニのレジにて《NO.42》
田淵はコンビニのなかを彷徨いながら、適当なパンを二つ手にとった。別に食べたい訳ではなかったが、なにかしら購入すればカタログを捨てる権利が手に入ると考えたからである。サラリーマンを横目にレジに向かうと、いらっしゃいませと女性店員の声に誘導された。レジのデスクに手元の二つのパンを出すと、女性店員は慣れた手つきでバーコードを読み取り、レジ袋はご利用になりますかと乾いた声で尋ねた。お願いしますと早口に答えた田淵は、店員の顔をちらりと見て戦慄した。目の前に佇む女性店員が、カタログに載せられていた《NO.42》その人だったからである。その黒目のあまりの美しさに時間が凍結した気がしたように感じられた。田淵の身体は凍りついたようにうまく動かなくなり、冷汗が噴き出してきた。動揺している田淵と対照的な冷静さで、女性店員はパンをそそくさと袋に詰めてから、243円になりますと口にした。一体この女性はなんなのだろうか。みずからが『性欲処理人形大全』に載せられていることを知っているのだろうか。田淵は試しに番号を呟いてみることにした。はたして女性店員は反応するのだろうか。
NO.42 ……。
女性店員は魅力的な黒目で田淵を一瞥して、流れるような仕草で背後のタバコを用意したあと、こちらでよろしかったでしょうかと尋ねた。その洗練された流れ作業のはやさから、はい、という返事が田淵の口から勝手に飛び出すと、水色の箱がレジ袋のなかに吸い込まれていった。意識がはっきりとしないまま、財布から千円札を会計を済ませてコンビニを出ると、ありがというございましたという声が弾けて消えていった。意味もなく袋のなかを確認すると、二つのパンと、メビウス・エクストラライトと書かれた水色の箱が入っていた。田淵は皮鞄からカタログを出して、レジ袋に移し替え、パンと煙草ごと燃えるゴミのごみ箱へと突っ込んだ。これ以上、奇怪な出来事に関わりたくなかったのは、もっと法外な出来事が起こりそうで怖かったからである。法外な出来事は、ぬめぬめした蛙のように跳びあがるのだろう。
意識が完全に失われた帰路
コンビニを背にして急ぎ足で家に帰る。街頭がやけに暗く見えて怖い。暗闇のなかを歩いていると、どれくらいの時間歩いているのか、どのような場所にいるのか、まったく分からなくなってきて、次第に、夢のなかにいるような心地よい気分が田淵を飲み込んでいった。まるで、別の人格が田淵に覆いかぶさったかのようである。その帰路において、田淵が何処で何をしていたか知る者はいない。田淵が夢遊状態のままに彷徨っていたのに気が付いたのは、家のあるアパートに到着したときである。それまでの記憶がすっぽりと抜け落ちていたが、田淵は不思議と軽快な気分を感じていた。ぬめぬめした快感の足湯に浸かっていたかのような気分である。この心地よい気分に包まれたなかで、田淵は、一階の郵便受けに一冊のカタログが投げこまれているのを発見した。鳥肌が溢れ出して、寒気が背中を走り抜けた。あのカタログに違いない。
性欲処理人形、あるいは死体
郵便受けのカタログを手に取ると、洗練されたポップ体で『性欲処理人形大全』と書かれていた。捨てたばかりのカタログがまた届いていることに驚き、見なかったことにして郵便受けに戻した。エレベータの乗って五階までたどり着き、そして自宅の扉を開けたまさにその時、玄関に一つの人影が立っているのが見えた。その人影の美しい黒い瞳がこちらを見ていた。《NO.42》だ! 恐怖と安堵が混じったぐちゃぐちゃな感情が田淵に襲いかかった。田淵は恐怖に怯えながら落ち着いて話しかけてみるが、その女性はまったく動くことはなかった。完全に人形なのである。その人形の足元には「ご購入有難うございます、またの機会をお待ちしております」という伝票が貼り付けられていた。田淵の筆跡だった。田淵が人形の手をそうっと握ってみると、人形はまだ微かに暖かく、さっきまで息をしていたように感じられた。田淵は人形の服を脱がせて、ずぼんを脱ぎ捨てた。
季山時代
2024.02.02

