Archive Walker

ブランコの現象学

二〇二三年八月二十日

ブランコの現象学

抽斗の整理と古びた写真

二〇二三年八月二十日。僕は、また抽斗のなかを整理していた。前回は抽斗のなかにメリーゴーランドの古びた写真を見つけたが、今回の整理では、一枚のブランコの写真が気になったようである。メリーゴーランドは完全な正円を描くが、ブランコは振り子の断片の円である。最近の僕は、遊具のなかに潜む円運動の軌跡に着目しているようである。メリーゴーランドにせよ、ブランコにせよ、シーソーにせよ、遊具は円運動をめざすものが多いのは偶然ではなく、なんらかの理由があることを記述したいのだろう。僕は、カフカのブランコ乗りの涙を想像して、その涙によってずぶ濡れになる天使を想像したのかもしれない。僕はこう書いていた。

ベンヤミンコレクション

山地大樹

ブランコの加速性

ブランコ。それは二つの項を往復する遊びである。ブランコの本質は、その加速性にある。車がアクセルを踏むことで大きく加速するのと同様、少しばかりの足の振り上げによって大きく加速する。ブランコは漕ぐという体験の加速装置であり、体験が膨らむことで、二つの項を往復するエネルギーが獲得される。たとえ漕ぐことをやめても、途端に止まるわけではなく、徐々にエネルギーの残り香が、ブランコを動かし続ける。

ブランコの人間性

ブランコ。それは人間と一体化する遊具であり、人間の匂いが常にこびりついている。人間に漕がれているブランコは生き生きしているが、人間が漕ぎ終わったブランコは疲労困憊している。人間が漕ぐことをせずブランコに腰掛けるならば、そこに哀愁が生まれる。漕がれないブランコは人間の生気を奪う、まるで幽霊のように。漕がれないブランコは宇宙と同様の静けさを持つ、まるで死体のように。ただ、死んだブランコは何度でも蘇る、水をやると元気になる植物のように。ブランコはミイラである。いつか一人で動き出すに違いない。

ブランコの円運動

ブランコ。それは未完成な円であり、ちぎれた円弧を振れている。ブランコは、完全なる円を求めてまわろうとする人間の欲望を表現している。ある者は立ち漕ぎをしてまでも、円を作り出そうとする。ある体験によって現象する正円を、その完全なる正円を頭に浮かべながら、その夢を追いかけて漕ぎ続ける。漕ぎはじめなければ、ブランコはぶら下がった直線でしかないのだから。

ブランコの両義性

ブランコ。それは主体と客体の構造連関の渦である。揺らすという身体的体験を媒介として、身体は揺らし、揺らされる。重力場のような逆説的な場所。たゆたう快楽は身体の深く底に内在化され、人間はついに自身の力によって無限にたゆたえる装置つくりだす。遊具との合体。そうして、揺らすことにによって揺らされる場所が形成される。それを揺らしているうちは、永遠に生きられるだろう。

夜のメリーゴーランド©季山時代《ブランコ》2023

季山時代

ブランコの詩

往復する、現実と幻を
往復する、物質と意識を
往復する、具象と抽象を
往復する、あちら側とこちら側を
ぶらぶら、ぶらぶら
反覆する、自己と他者を
反覆する、没入と解離を
反覆する、孤独と群衆を
反覆する、あちら側とこちら側を
ゆらゆら、ゆらゆら
たゆたう弁証法の蝶々

季山時代
2023.08.20