Archive Walker

コーヒーのマゾヒズム論 蚊と腫れ物他

日々の記録

依頼者様へ。お世話になっております。二〇二四年度、一月二十三日から一月二十七日までの調査報告になります。ご参考いただければと存じます。今後ともよろしくお願い申し上げます。

二〇二四年一月二十三日

コーヒーのマゾヒズム論

カフェイン断ち

二〇二四年一月二十三日。僕はカフェインを断つことを決めた初日だった。激しい頭痛に襲われながら、バッハの『コーヒー・カンタータ』を聴くと、コーヒーを辞めた方がよいのか早くも不安になった。千度の接吻よりすばらしく、マスカットの酒より甘いコーヒーを辞めることなどできるだろうか。僕はこう書いていた。

コーヒー博物誌

自我論集

山地大樹

カフェイン中毒者の空

頭が痛くて死んでしまいそうなのは、昨日の夜からカフェインの摂取を断っているからである。十五杯程度のコーヒーを飲み続ける生活を三年ほど続けていたのだが、慢性疲労や脈拍数の増加など、身体が悲鳴をあげ続けているからカフェインを辞めることを決意した。コーヒーを辞めて初日にして激しい頭痛に見舞われて驚いている。そのうえ、身体が重くて五時間も昼寝をしてしまう始末である。それほどにまでカフェインに侵食されていたのである。ふと窓の外を見ると、青い空が広がっている。なんて自由な空だろう。コーヒーを辞めて、頭痛のなかで見る空はなんて綺麗なんだろう。自由とはこのことか。

コーヒーの詩学

コーヒーについて散文的に書いてみよう。『コーヒー博物誌』を読んで興味深く思われるのは、アルコールに溺れる大衆とコーヒーに溺れる知識人の対立構図が浮上することである。手元に資料がないので孫引きで失礼するが、印象的なミシュレの詩を引いてみよう。「コーヒーよ、正気をもたらす飲み物よ、酒とは異なり純粋と明晰をもたらすものよ、脳の偉大なる栄養なり」。なるほど、コーヒーは真実の姿を浮かび上がらせる飲み物であり、人々を堕落させる酒と対照的な関係にある。また、知識人にはコーヒーを愛するものが多く、カントは「あの世に行けばコーヒーを待たされることもなくなる」と記述するほどのコーヒー愛好者だったし、ヴォルテールは毎日六〇杯のコーヒーを、バルザックは毎日八〇杯ものコーヒーを飲んだと言われている。明らかにカフェイン依存症だと言わざるを得ない量である。よくよく考えてみると、アルコール依存もカフェイン依存も身体にとっては異常事態であることに変わりはないだろう。

コーヒーと酒

コーヒーと酒の関係は、禁酒法以後の動向が明らかにしてくれる。禁酒法によって酒が禁止されたとき、アルコールの代替物としてコーヒーが選ばれ、コーヒーの消費量が二倍近く伸びたのである。なるほど、コーヒーはアルコールで代替可能であり、アルコールはコーヒーで代替可能だということである。まわりを見渡すと、コーヒーを飲まないひとはアルコールに溺れがちで、アルコールを飲まないひとはコーヒーに溺れがちという印象すら受ける。もし仮に、コーヒーとアルコールがまったくの対照的な関係にあるならば、どちらに傾いているかで性格判断さえできる程である。私はというと、断酒をしてからコーヒーの消費量が三倍ほどに増えたことに、いま気がついて驚愕している最中である。確かに、酒を辞めてから理性的な性格になった気がする。ところで、コーヒーと酒の違いはどこにあるのだろうか。

コーヒーとアルコールの対照関係

コーヒーは理性的な印象を、アルコールは非理性的な印象を与える。コーヒーは朝のイメージが付き纏い、酒には夜のイメージが付き纏う。コーヒーは目覚めと結びつき、アルコールは眠りと結びつく。コーヒーがこうした印象を与える根幹にあるもの、それは苦痛ではないだろうか? ナポレオン・ボナパルトはこう述べている。「強いコーヒーをたっぷり飲めば目が覚める。コーヒーは暖かさと不思議な力と心地よい苦痛を与えてくれる。私は無感覚よりも、苦痛を好む」。なるほど、この言葉はコーヒーは苦痛を与えるものなのだということを明晰に記している。コーヒーは苦痛を与えるからこそ、人々を理性的なものに仕立てあげ、目覚めさせるのではないだろうか? その一方、アルコールは苦痛を取り除くために使われているのではないだろうか。試しにこう言い換えてみよう。コーヒーは不快を与えて、アルコールは快を与える。だから、もしコーヒーの不快を快に感じる者がいるならば、コーヒーの快はマゾヒズム的なものとして与えられいる。

コーヒーの快はマゾヒズムである

コーヒーの快はマゾヒズム的なものである。人々は一日の終わりに眠りに付くために生きているが、その欲求に逆らって目覚め続けるのがコーヒーの魅力である。要するに、自虐的な快なのである。それは、コーヒーが苦痛として現われることに依拠している。コーヒーは程よい苦痛を与えて、程よい苦痛はひとを理性的にさせる。苦痛のなかで、人々は自分自身に没入することはできず、自分自身を意識しなければならなくなる。指先を少し切っただけで、世界が冷え切って見えるのと同じように、コーヒーを一杯飲んだだけで、程よい苦痛が自己を客観視させてしまう効果がある。コーヒーの苦痛が人を理性的にさせるという意味で、知識人とコーヒーの結びつきは堅固になものになる。これは、主観のなかに溺れてゆくアルコールとはまったく反対のものであると言いたい。コーヒーはあらゆるものを客観化させて、アルコールはあらゆるものを主観化させる。コーヒーは遅く、アルコールは速い。私は、アルコールよりもコーヒーを選びたい。ただ、重要なのは程よい苦痛である。カフェイン中毒者の苦痛は度が過ぎている。だから、是正しなければならない。

季山時代
2024.01.23

二〇二四年一月二十四日

カフェイン断ちと白昼夢

カフェイン断ちの症状

二〇二四年一月二十四日。僕は、コーヒーを辞めたから激しい頭痛や眠気に見舞われている。集中力も続かないようで、椅子でぼうっとしていた。僕はこう書いていた。

山地大樹

カフェイン断ちと白昼夢

コーヒーを辞めて二日目。何もやる気が起きない。頭が割れるように痛い。なんだか顔も熱っぽい。ずっと夢のなかにいるかのようである。現実のなかにいるのに夢のなかにいるような感覚、この感覚はお酒を飲んだときの感覚にそっくりである。なるほど、不思議な事態である。先日、コーヒーとアルコールの対照関係を書いたこともあり、コーヒーを辞めるとアルコールを摂取したかのような感覚になることは、なにか本質的な事態に関わっている気がする。そういえば、かつて断酒をしたときに思ったのは、まさに正反対のことであった。すなわち、毎日がコーヒーを摂取したように感じられたのである。コーヒーを辞めるとアルコールを摂取したかのような感覚になり、アルコールを辞めるとコーヒーを摂取したかのような感覚になる。もしかすると、コーヒーとアルコールの二つの項は、日々、お互いの陣地を奪おうとせめぎあっているのかもしれない。理性的になろうとするコーヒー的傾向と非理性的になろうとするアルコール的傾向の対立だろうか?もしカフェイン断ちを続けたらどうなるのだろう。コーヒーもアルコールも辞めたならば、両者の仁義なき戦いは幕を閉じて、凪のように鎮まりかるのだろうか。果たして、それは生きていると言えるのだろうか?

季山時代
2024.01.24

二〇二四年一月二十五日

言葉の鳥と赤い世界

パスの『鷲か太陽か?』を手に取る

二〇二四年一月二十五日。僕は本屋の一番目立つところに置かれていた、オクタビオ・パスの『鷲か太陽か?』を手に取っていた。僕はパスについて無知であったが、ページをパラパラとめくって感じることがあったのか、購入することを決めていた。僕はすぐに読了して、パスのイメージに引きずられたまま文章を書いていたから、その影響がみられるのかもしれない。ちなみに、パスの本のなかで、僕が一番お気に入りに感じていたのは、所収された「出会い」という僕が僕を追いかける文章であり、三度ほど読み返していた。なるほど、二〇二三年八月零日に探偵業をはじめたときの想いと重なり合う。ところで、僕が書いている文章は謎に満ちているが、多分、言葉という鳥を撃つという小さな出来事が、世界を真っ赤に染める大きな出来事へと繋がる膨張を描いているのだと思う。僕はこう書いていた。

オクタビオ・パス『鷲か太陽か?』

山地大樹

言葉の鳥と赤い世界

言葉の鳥に銃を向け、引き金を絞ると鳥が落ちてくる。鳥はジタバタと暴れ回り、生命の飛躍のなかで溺死する。鳥の心臓にはポッカリと穴が開いて、言葉は真っ二つに割れている。《と》と《り》のあいだ、真っ黒な穴が開かれて、なにかを挿し込まれるのを待っている。黒い穴に花を活ける。綺麗な綺麗な白い花。鳥の血を吸いながら、赤よりも赤い赤へと染まる。鮮血の花に蝶が止まる。蜜に飢えた黄色い蝶。血の甘い蜜を吸いながら、唇から赤く染まりゆく。真っ赤な真っ赤な一匹の蝶。鮮血の蝶が空に羽ばたき、太陽を目指して一直線。羽が雲に触れたなら、雲は赤く染まるから、雲を避けながら舞い踊る蝶。星を横目に月を超え、蝶は太陽に着地する。蝶は足から焼け焦げて、哀しげな声で灰になる。蝶の涙は太陽に落とされ、太陽が真っ赤に染まりゆく。真っ赤な真っ赤な一つの太陽。発散される美しき赤光。赤い光はあらゆるものを赤く染める。赤い星、赤い月、赤い樹々、赤い地球と赤い人間。真っ赤な一つの世界。愛と幻想の赤の色。

季山時代
2024.01.25

二〇二四年一月二十六日

蚊と腫れ物

蚊に刺されの想起

二〇二四年一月二十六日。僕は右頬に小さなにきびを発見していた。にきびを潰すのはよくないと知りつつも、爪で潰すと、白い脂肪のようなものが出てきて、その後に血が続いた。それを見て、僕は幼少期の夏休みを想い出していた。蝉を取ろうと庭の樹木に向かっているとき、手の甲を蚊に刺されて、夏休みの期間ずっと腫れ続けた想い出である。日に日に大きくなってゆく腫れ物を見て、本当に蚊に刺されたのか不安になった記憶がある。この想い出と、芥川の蜘蛛の小説が重なり合ったのかもしれない。僕はこう書いていた。

蜘蛛の糸・地獄変

山地大樹

蚊を叩き潰す

右目の下に妙な違和感を感じて、手を頬に近づけてみると、一匹の蚊が身体から離れてゆくのが見えた。蚊の腹は膨らんでいたから、どうやら蚊に刺されてしまったようだ。血を吸い取られたことに腹が立ったから、両手の平で叩き潰そうとすると、殺さないでください、お願いします、子供がいるんです、と懇願する弱々しい声が聞こえてきた。なるほど、子供のために危険を顧みずに人間に噛みつくなんて、誇るべき母性の理想なのかもしれない反省して、なにも殺してしまう必要はないだろうと一度は優しさを見せたものの、蚊は部屋から出ていかず、耳元でぷんぷんと羽音を立てるから、あまりの不快さに両手で叩き潰してしまった。掌のあいだに血の痕跡を残しながら、蚊はあっけなく破裂した。みずからの掌に付着した赤い液体を見ると、なんだか不気味に思えてきて、蛇口を捻り、石鹸で綺麗に洗い流した。蚊は、口を開けた排水管へと吸い込まれていった。

右頬全体が腫れあがる

しばらくして右頬が痒くなってきた。鏡を見ると、右目の下あたりが赤く腫れあがっている。なんだ蚊の仕業かと憎らしく感じられると同時に、懇願する蚊の哀しげな顔が想起されて心臓がきゅっとなったので、ぼりぼりと掻き毟ることで忘れようとすると、小さく出血したようで、小さな赤色の点が肌のうえに浮上した。その点を軽く指先で擦ってみると、赤い点は赤い一筋の線へと延長され、まるで血の涙が流れたようになった。蚊を潰したときの掌の液体を想起して、ぞっとした感情が襲ってきた。殺さないでと懇願した蚊は、血の涙を流していたのだろうか。痒みは静止することを知らず、何度も掻き毟るうちに頬の腫れ物は徐々に膨らんで、数日で右頬全体を覆うほどになり、右目が開けられなくなった。こんな顔では恥ずかしくて街も歩けないから、医者を家に呼び寄せて診てもらうが、こんな症状は見たことないと医者は首を捻らせて、抗生物質の塗り薬を置いて帰っていった。

藪医者の針で刺す治療法

塗り薬をいくら塗っても治る気配はなく、痒みは増し、腫れ物は膨らみ続け、とうとう顔全体が腫れ物になってしまった。顔全体が林檎ようになり、目は開けられずに視覚が奪われ、鼻孔は圧迫されて嗅覚が奪われ、口はかろうじて開けられる程度で呼吸するのがやっとという状態、話すことはままらなかった。ただ、耳だけは健全に機能しているようで、以前より音には敏感になった。なにやら大変なことが起きたようだと、医者の噂を聞きつけた街の人達が押し寄せてきたが、腫れあがった顔が滑稽なのか、くすくすと嘲笑ばかりが聴こえてくるから、帰ってくれ、見世物じゃないんだ、と残された身体を使って街の人を追いやった。それから数日後、治療法を教えてやろうと一人の藪医者が訪れた。古びた皮鞄から一本の針を取り出して、これで蚊に刺されたところを刺すならば、膿がすべて溢れ出して治るじゃろうと言って、囲炉裏の炎で針を焼いて消毒してから、右目の下をぷすりと刺したが、少しばかりの膿が滲み出すばかりで治ることはなかった。藪医者は、これは蚊に刺されではない、蚊の呪いじゃ、とぶつぶつ呟いて帰っていった。

家主に追い出される

藪医者が残した蚊の呪いという言葉が印象に残った。なるほど、懇願する弱々しい声を叩き潰したことが悪だったのだろうか。ただ、そんなこと誰しもがやっている悪ではないだろうか。小さいものが大きいものに潰されるのは自然の摂理ではないだろうか。そんなことを考えているうちも、腫れ物はどんどん大きく膨らみ続け、ついには身体全体が一つの林檎のようになってしまった。もう、移動することもままならない。このまま死ぬのを待つのだろうか。このとき、がらがらと扉を開く音がした。誰かが助けに来たのかと期待したが、なにやら、こんな人間かも分からない梅干しみたいなやつに部屋を貸し続けても仕方がないではないか、もう次の住人を入れた方がいいのではないか、でも家賃は貰ってしまっているではないか、と揉める声が聴こえる。声からすると、家主と家主の友人で間違いない。もう二十年分の家賃を先払いしているはずだが、腫れ物に家を貸し続けることに違和感を感じたらしく、追い出すか追い出さないかで揉めているようだ。しばらくして話はついたらしく、すまんなあ、長いことありがとよ、と家主は呟いて、腫れ物をころころと転がして、部屋から運び出す作業を開始した。

粗大ゴミ処理場のプレス機

やめてくれ、転がさないでくれ、と懇願しながらも、痒くて仕方がなかった箇所が床の触れることで微かな快感を感じた。痒いところに手が届くという幸福は、この世のどんな幸福にもかなわないことを知った。部屋から追い出され、階段のうえを転がされ、軽トラックのなか運び込まれ、二十分ほどして何処かに到着した。がしゃがしゃと鳴り響く機械音から推測すると、粗大ゴミ処理場に運び込まれたようである。きっと捨てられるに違いない。通常なら回転式破砕機をつかいますが、こんな大きな腫れ物は入らないので、機械式プレス機で潰してしまいましょう、大丈夫、一瞬でぺちゃんこになりますから、と粗大ゴミ処理場の労働者が述べると、家主はお願いしますと金を払った。途端に恐ろしくなり、殺さないでください、お願いします、と叫んでみるのだが、口が閉ざされているためだろうか、微かに息が漏れるばかりで声がでない。音が聴こえるだけで何もできないというのは、この世界でもっとも弱い存在の特徴である。ベルトコンベアに乗せられて、プレス機の板が左右から迫ってくる気配がする。もうすぐ死ぬ。ぺしゃんこになって、洗剤で綺麗に洗い流されるのだろう。

季山時代
2024.01.26

二〇二四年一月二十七日

セックスなしのセフレの物語

カフェでの会話

二〇二四年一月二十七日。僕はカフェで作業をしていたのだが、横のカップルが揉めているのが聴こえてきた。セックスレスが原因で別れるかの相談中であり、彼氏側がほかにセフレをつくればどうかが議題にがあがっていた。これが文章を書かせた原因だろう。僕が書いた文章をみると、二〇二四年一月十八日の『卵なしご飯の哲学』と同じく、不在の現前という主題を見出すことができる。僕はこう書いていた。

イマジネール 想像力の現象学的心理学

山地大樹

セックスなしのセフレの関係

ねえ、セックスなしのセフレにならない。君、そういう不思議な関係が好きでしょ、私、それがいいわ。

それは、普通の友達と何が違うの? 僕たちは何をするの?

喫茶店で珈琲を飲んだり、川沿いを散歩したりするんじゃないかしら。たまに映画なんか観たりして。やっぱり普通の友達に限りなく近いのかもしれない。でも、普通の友達よりも少しだけ乾いていて、表面を滑ってゆく春風みたいな関係。普通の友達をしている途中で、この人とはセックスできないんだ、しようと思えばできるのにセックスしないんだ、って不意に想うの。なんせセックスフレンドだからね。それで、なんだか愛おしくなるのよ。

分かりそうで分からない。とにかくなんだか不思議な関係なんだね。セックスのしたで二人とも宙吊りになるんだね、風みたいで、夢みたいで、二人してハムスターになるって感覚。

そう、二人してハムスターになる感じ! 二人してホイールの上を回り続けるの、素敵じゃない? 少しだけ儚くて、少しだけ楽しいのよ。

季山時代
2024.01.27