Archive Walker

夢解釈(夢判断) ジークムント・フロイト 読書の記録

『夢解釈(夢判断)』は一八九九年に初版が刊行された、フロイトの夢に関する研究である。フロイトは一八九九年に刊行された後も、三〇年にわたり手を加え続けたという。岩波書店の『フロイト全集(4-5)』、中公クラシックスの『夢解釈〈初版〉』、人文書院の『フロイト著作集 第二巻』、新潮文庫の『夢判断』、新潮モダン・クラシックス『新訳 夢判断』、など幾度となく翻訳されてきた名著である。今回は、二〇一九年に発行された新潮モダン・クラシックスの『新訳 夢判断』を読んでゆく。編訳は大平健であり、研修医用の敷衍訳なのだが、柔らかい言葉を並べた美文であり、挿入された注釈も読者を手助けしてくれる。素晴らしい出来栄えの一冊である。

この本は、第一章の既往研究部分が大胆に割愛されたり、分かりやすいように文章の順番を入れ替えたりしているのだが、それも誠実さに基づくもので、一般読者が読みやすいような工夫である。是非とも手にとっていただきたい。ただし、フロイト全集の方が訳語が統一されていることもあるため、ここでは全集を手元に置きながら読んでゆきたい。この記録における引用箇所は、基本的にすべて全集からとした。ここでは、本を読んだ内容と感想を記録してゆく。自分の言葉に直しながら、自分なりに改変して解釈していることも多いので、詳しく知りたい方は原著で読んでください。原文はこちらで読むことができます。

『夢判断』の表紙

夢判断(夢解釈)夢に隠された意味を科学する試み

まず、概要と経緯だけ簡単に見ておく。フロイトは一八九五年にヨーゼフ・ブロイアーという医師とともに『ヒステリー研究』を出版した。有名なものは「アンナ・O嬢の症例」である。この症例において、症状の原因となった外傷的な事柄を語り尽くすことによって、ヒステリー症状が治癒されることが明らかになった。当時、症状の原因となった外傷的な事柄を想起させるためには、催眠術が用いられていたのだが、いつまでも催眠術を使い続けるわけにはいかず、患者の無意識を探る新しい方法が求められた。ヒステリーの研究を進めるフロイトは、新しく自由連想法を導入しはじめ、患者が自身の夢を語りだすことが多いと気がついた。そこで、夢を神経症の症状のように取り扱うことができるのではないか、と考えた。

神経症と関連する心的なメカニズムが、いわゆる健康な人の夢のなかにも具備されている。こうした背景から『夢判断』が誕生した。忘れてはならないのは、夢の分析がヒステリーの治療との関わり合いの中で生まれたことであり、それゆえ、夢の分析は精神の異常にまで一繋がりに続いている。「夢というものは、異常な心的構築物の系列な中の最初のものであって、この系列をさらに辿ってゆくならば、ヒステリー性恐怖症、強迫表象、そして妄想表象へと続くことが見えてくる(全4-p4)。正常な人が見る夢は異常と一繋がりで、正常と異常の境界は曖昧に溶けている。この意味において、夢は大変興味深い研究対象である。

本書は七つの章からなり、読み進めていくうちに夢解釈の体系が明らかになってゆく。強引で根拠に欠けている箇所は多いものの、新しいひとつの体系を打ち建てることの困難を知る者は、フロイトを安易に批判することはできないだろう。フロイトは、本書の目的は二つ提示している。ひとつは、夢を解き明かす技法を明らかにし、夢に意味があることをを示すこと。もうひとつは、夢の奇妙さや得体のしれなさが生じる過程を解明し、人間の心的な力の正体を明らかすること。なるほど、夢という科学たりえないものを、科学的に説明する挑戦といえよう。では、適当な見出しをつけて記録してゆこう。

一、夢に関する学術的文献

第一章では、夢についての学術的文献が羅列され、夢に対する研究がほとんど進んでいないことが明らかにされる。古代ギリシアやローマの人々は、夢を神々や悪魔からの啓示として扱い、哲学者たちは夢を占いと同様に扱っていた。こうした超越的な夢の考察から一歩前に踏み出したがアリストテレスである。アリストテレスは、夢を超自然的なものではなく、人間の精神が生じさせたものだと考えた。本書では省略されているが、全文では驚くほど膨大な文献が並べられているので、興味がある方は岩波書店の全集を読むことを勧める。

二、夢解釈の方法

夢には意味がある

民間の人々が古来から行なっていた夢解釈の方法として「象徴的夢判断の方法」と「暗号解読の方法」があるのだが、どちらも役に立たないと断言される。ただし、科学的な方法こそ確立されていないものの、夢には意味があると考えた点では評価できる。では、夢を科学的に取り扱うには、どのような方法があるのか。フロイト独自の視点は、夢を神経症の症状のように扱った点にある。ヒステリー研究で得た技法を、そのまま夢へと適応することができるとフロイトは考える。「夢そのものを症状のように取り扱い、症状のために編み出された解釈技法を、夢にも応用してみよう(全4-p136)。その解釈技法とは、自由連想法である。

自由連想法のやり方、夢の動機

自由連想法において、患者はソファやベッドに横になり、頭に思い浮かんだ思考や幻想、そしてそれらから連想される思考や幻想、そのすべてを自由に語らなくてはならない。自由連想法の注意点は二つある。ひとつは自分が思ったり感じたりすることへの注意力を高めること、もうひとつは内省のスイッチを切ること。内省を加えない自己観察の状態に身を置くことが要求され、患者は自然と浮かんでくるものを、率直にそのままの状態で話さなくてはならない。自由連想法の説明がなされた後、イルマの注射の夢というフロイト自身の夢が引き合いに出され、夢が分析されてゆく(∗1)。詳細は述べないが、ここでの結論はこうである「夢の内容は一つの欲望成就であり、夢の動機は一つの欲望である」と(全4-p161)。すなわち、夢には望みを叶える機能がある。

フロイトのソファ
フロイトのソファ ©ROBERT HUFFSTUTTERフロイトが自由連想法を行なったとされるソファ。患者は、浮き上がってくる事柄に対して批判力を行使してはならない。フロイトはシラーの言葉を引用しながら、「悟性の監視を戸口から撤退させる」という粋な表現を使っている(全4-p140)
(∗1) イルマの注射の夢

一八九五年、ヒステリー患者イルマの治療がうまく進まず、イルマの痛みが続いていることに責任を感じていたフロイトは、イルマの注射の夢を見る。この夢をフロイト自身が解釈した結果、イルマの病気に関して無罪でありたい、というフロイトの願いが達成されていることが明らかになる。

三、夢には望みを叶える機能がある

夢には望みを叶える機能がある。この発見を証明するためにフロイトは様々な例を挙げてゆく。分かりやすい例だと、喉が乾いている時に水を飲んでいる夢を見るというもの、はたまた食べ損ねた御飯を夢のなかで食べるというもの。こうした夢は、神経症の人だけが見る夢ではなく、日常を過ごす誰しもが見ている夢であり、神経症者といわゆる健康の人の隙間にあった境界は取り払われ、精神分析の一般化がなされてゆくのは興味深い。ディルタイが解釈学の技法を一般化して、生の表現を対象とする精神科学を基礎づけたことに近い。ディルタイの材料が、人間の生が刻み付けられたすべてのものならば、フロイトの材料は、人間の心が創りあげたすべてのものなのだろう。

囚人の夢
囚人の夢 @wikimediaモリッツ・フォン・シュヴィントというロマン派の画家が1836年に描いた絵画。眠りにつく囚人の男は、窓から身を乗り出して自由になりたいという望みを叶えようとしている。フロイトは『精神分析入門講義』でこの絵画を解説している。「妖精のうちで一番上に乗っていて、鋸で格子を切ろうとしている、つまりは囚人自身がしたいと思っていることをしている妖精は、囚人と同じ目鼻立ちをしています(全15-p160)

四、夢は歪曲されている

子供の夢は、謎解きをするまでもないほど素直に欲望を叶えているのだが、大人の夢は一見すると欲望を叶えているように見えないものが多い。たとえば、苦痛に満ちた夢を見るのはなぜだろうか。フロイトは、夢が歪曲されているからだと答える。すなわち、一見すると苦痛に満ちた夢は、歪曲されているためにそう見えるだけであり、解釈をすると望みを叶えようとしていることが判明する。そこで、夢が歪曲される仕組みを明らかにしなければならない。

フロイトは自身の「ブロンド髭の叔父の夢」の分析を通して、二つの心的なシステムから歪曲を説明している(∗1)。一方のシステムは、夢の中で成就されるべき欲望を形成し、他方のシステムは、その欲望に歪曲を行おうとする。この対比は、文筆家と検閲官の比喩で喩えられる。文筆家は欲望を成就するための自身の表現を行ないたいのだが、検閲を通過するために自分の表現を歪曲しなければならず、その過程で望みは偽装されてしまう。望みの偽装をしなければ、意識への入場許可が得られない。さらに「スモークサーモンの夢」や「甥が棺に横たわっている夢」などの夢が語られるが、端的な結論は、夢は抑圧された望みを偽装して叶えるというものである(∗2,3)。まとまった箇所を引用しておこう。

したがって、夢の歪曲は、事実上一つの検閲の行為であるとみなされる。不快夢の分析が明るみにもたらしたものをすべて考慮に入れるために、夢の本質を表現するわれわれの公式は、次のように書き直しておくことにしよう。夢はある(抑え込まれ、抑圧された)欲望の、(偽装された)成就である。

フロイト『夢解釈』

(∗1) ブロンド髭の叔父の夢

教授に推薦されたという話を耳にしたフロイトの夢である。犯罪に手を染めたヨゼフ叔父さん、教授の夢を諦めずに役所に通う友人R、過去に犯罪に手を染めた同僚Nの話。フロイトは夢の中で教授になりたいという欲望を叶えるべく、友人Rや同僚Nを乏しめる。その一方で、夢のなかで友人Rに「やさしい気持ち」を感じたフロイトは、そのやさしい気持ちが歪曲の結果であることに気が付き、友人Rの頭が弱いと主張したかったことが暴露される。

(∗2) スモークサーモンの夢

夕食会をしたかったが、食料庫にはスモークサーモンがあるばかり。他の食料を手に入れることもできず、夕食会を断念したという女性患者の夢。夕食会を開くと、患者の女友達がふくよかになり、ふくよかな女性好きの夫に気に入られてしまう。それゆえに、女友達が太らないように夕食会を断念した、というのがフロイトの解釈である。また、この夢では女性患者と女友達は立場が入れ替わっているのであり、フロイトは同一化の観点から分析している。

(∗3) 甥が棺に横たわっている夢

甥が棺に横たわっているという女性患者の夢。患者は甥が死ぬことを望んでいたのではなく、好意を寄せる教授にもう一度会いたいという望みを表現していた。なぜなら、甥が死抜ことによって、葬式に愛すべき教授が来るからだ。

五、夢の素材と夢の源泉

この章では、夢の材料や源泉はどこにあるかが探究される。この探究は四つの節に小分けにされて遂行される。(A)夢に出てくる最近の出来事や些細な出来事、(B)夢の源泉としての幼年期の経験、(C)身体的な夢の源泉、(D)典型夢について、の四つ。なかなか興味深いので、簡単にまとめておこう。

(A)夢に出てくる最近の出来事や些細な出来事

フロイトによれば、夢は前日の経験をきっかけとして現われるという。潜在的に表現したいものが、日中に気になっていた些細な物事に置き換えられて、一つの統一体としての夢が形成される。もし、夢を誘発するような経験が二つ以上ある場合、夢はそれらにまとまりを持たせようと努力して、「それらの経験から一つの全体を形成しようとする強迫に服する(全4-p236)。日中に遭遇した些細な事柄は、潜在的に表現したいものとの接点さえあれば夢の素材として用いられる。言い換えるならば、どれほど単純無垢でどうでもよい夢だとしても、そのなかには深長な意味が隠されている。具体例として「植物学モノグラフの夢」を皮切りに、幾つかの夢が提示され、理論が説明されてゆく。

(B)夢の源泉としての幼年期の経験

フロイトによれば、夢の素材に活用されるもののなかで、前日の出来事と幼年期の経験が優先的な扱いを受けるという。たとえば、子供の頃に気に入っていた玩具や、印象に残った話など。フロイトは、「ブロンド髭の叔父の夢」のより深い解釈を通して、この夢は大臣になりたかった子供時代の望みを叶えていることを明らかにする。また「フロイトのローマの夢四編」と呼ばれる夢を通して、幼い時代の体験が夢の源泉をとなっていることが確認される。重要なのは、「夢の分析に深く入り込めば入り込むほど、人はそれだけしばしば、幼年期体験の痕跡へ導かれる」ことである(全4-p259)。さらに「トゥン伯爵の夢」などの幾つかの夢が提示され、理論が説明されてゆく。

(C)身体的な夢の源泉

フロイトによれば、睡眠中に身体的な刺激が加わっても、夢の本質は変わらないという。これはなかなか面白い。たとえば「灰色の馬に乗っている夢」の例を見よう。陰部の出来物の激痛に苦しめられているフロイトは、乗馬をする夢を見た。現実において、出来物によって断念されていた乗馬の場面があえて選ばれ、夢の中では出来物はないかのように振舞われた。出来物がなくなって欲しいという願望は叶えられている。とはいえ、夢の本質は変わらない。乗馬の場面に合うようにすべての素材が統一されて、夢は潜在的な思考を表現する。すなわち、身体的な刺激の回避すらも夢に織り込まれたのである。フロイトいわく、夢は刺激をなかったことにして、睡眠が覚醒しないために夢の材料を総動員する睡眠の保護者であり、眠りたいという欲望は夢形成の重要な動機の一つである。

(D)典型夢、あるいは類型夢

フロイトによれば、人はひとりひとりの独自な夢を見るのだが、誰もが同じように見る典型夢(類型夢)があるという。そうした典型的な夢は、誰にとっても同じような起源を持つだろうから、典型夢についての知識を深めることは無駄ではない。たとえば、裸で恥ずかしい夢、愛する者が死ぬ夢、試験に落ちる夢、など。裸で恥ずかしい夢は、幼年期の露出できた頃に戻ろうとする願望である。愛する者が死ぬ夢は、そこに哀悼の気持ちが生じる場合は、愛する者に死んで欲しいと考えたことがある人の願望を叶えている。幼い子供が、母親の愛を独占するために、兄弟にいなくなって欲しいと思うのは自然なことであり、幼い子供にとっての死は不在の表現である。

また、愛する者が死ぬ夢のなかには、同性の親の死を願う意味が隠されていものが多く、エディプス神話の分析がなされていることは注目に値する(∗1)。こうした典型夢の分析から、夢が自己中心的であることが明らかになる。「あらゆる夢は、隅から隅まで絶対的にエゴイスト的である。夢の中には、たとえ身をやつしてでも、愛しき自我が必ず顔を出す」のである(全4-p348)試験に落ちる夢に関しては、試験に不合格になった人よりも合格した人が見るという。この意味は、もう合格しているのだから大丈夫という夢からの慰めである。最後に、性的な象徴を持つ典型夢も簡単に触れられる(∗2)

裸の王様の挿絵
裸の王様の挿絵 @wikimediaヴィルヘルム・ペデルセンが『裸の王様』に描いた挿絵。フロイトは、裸で恥ずかしい夢を分析する際に、『裸の王様』を例に出している。二人の詐欺師が登場し、彼らは王様のために高価な布で服を仕立てたことにして、賢い者にしか見えない布だという。ここにおいて、詐欺師は夢であり、王様は夢を見る人である。すなわち、この物語は裸になりたいという幼児的願望の表現に他ならず、詐欺師は裸になるよう唆す潜在的な願望で、王様は裸で街を闊歩することを叶えている。ただし、見えない服を着ているという、もっともらしい外観をだけは整えられている。
(∗1) エディプスの神話

エディプスコンプレクスのもととなった神話。「エディプスコンプレクス」という用語が正式に用いられるのは、一九一〇年の『性愛生活の心理学への寄与』がはじめてである。エディプスコンプレクスは、幼年期において、父親への憎しみと母親への愛を抱くというもの。『夢解釈』においてはこう書かれている。「父ライオスを打ち殺し、母イオカステをめとったエディプス王は、われわれの幼年期の欲望成就の姿である」と(全4-p341)

(∗2) 夢における性的な象徴

夢における性的な象徴は、一九一六年から一九一七年に書かれた『精神分析入門講義』の第十講において簡潔にまとめられている。男性器を象徴するものとして、杖、傘、竿、樹木、短刀、槍、小銃、拳銃、蛇口、噴水、蛇など。勃起を象徴するものとして、気球、飛翔など。女性器を象徴するものとして、壺、箱、船など。これだけに留まらないため『精神分析入門講義』も参考にされたい。ただし、フロイトが繰り返しているように、この象徴関係を夢解釈に利用することは、あくまで補助的な手段にすぎない。「つまり夢を翻訳して行く作業を象徴翻訳へと狭めてしまい、夢見た人の思いつきを活用する技法を放棄するなどということにならないよう、とくに念を押しておきたいと思う(全5-p105)

六、夢の仕事(夢工作)

この章では夢の仕事、すなわち夢の働きが探究される。フロイトはまず、夢の顕在的内容と潜在的思考を峻別する。一方の顕在的内容は夢を見た本人が覚えているものであり、他方の潜在的思考は夢を見た人の自由な連想によって暴かれてゆくものである。喩えるならば、夢内容という絵文字を、夢思考という言葉に置き換えてゆく作業に近い。ここで重要になるのは、潜在的思考にたどりつくために、顕在的内容と潜在的思考の関連、すなわち夢の仕事と呼ばれる作用を明らかにすることである(∗1)。フロイトは夢の仕事を四つ提示している。圧縮、置き換え、視覚表現化、二次加工である。その四つを簡単に要約してみるが、あくまで簡潔にまとめたものに過ぎないから注意されたい。

(∗1) 無意識的欲望はどこにあるか

スラヴォイ・ジジェクの『イデオロギーと崇高な対象』という本の中に、重要な文章があったので引用しておく。「つまり、いつでも三つの要因が破たらしているのだ。すなわち顕在的な夢のテクストと、潜在的な夢思考と、夢に表現された無意識的欲望である。この欲望は夢に付着し、潜在思考と顕在テクストとの間の空隙に入り込む。(中略)夢の真の主題(無意識的な欲望)は、夢の作業の中に、すなわち夢の『潜在内容』の加工の中に、あらわれるのだ」。なるほど、夢の最奥に隠されているのは、夢の潜在的な思考を偽装するという作業の中にあらわれるのであって、夢の潜在的な思考そのものではない。(河出文庫 p31)

圧縮(縮合)

潜在的思考は大幅に縮合されて顕在的内容になる。「夢の諸要素が夢思考によって幾重にも決定されているばかりではなく、個々の夢思考もまた、夢において幾つかの諸要素によって代理されている。連想の道は、ある一つの夢要素から幾つかの夢思考へと、また一つの夢思考から幾つかの夢要素へと通じている(全5-p11)。したがって、どの顕在的内容の要素も潜在的思考と繋がりを持つという基本原則が成り立つ。顕在的内容に比べて、潜在的思考の方が分量が多いことから、複数の意味がひとつに縮合されて表現される。例えば、一人の人物のなかに複数人の人物の特徴が縮合されたり、幾つかの言葉がひとつの言葉へと縮合されて奇妙な語が生じたりする。

置き換え(遷移)

潜在的思考と顕在的内容の意味がずれているのは「夢遷移」が働いたからである。潜在的思考の中心的要素から価値が剥ぎ取られて、顕在的内容において、何らかのつがなりを持ってはいるものの、重要ではない些細な要素へと価値が与えられる。例えば「植物学モノグラフの夢」では、人付き合いや入り組んだ葛藤が潜在的思考の主題であるのに対して、顕在的内容においては植物学が主題になっている。「夢はいわば夢思考とは別様に中心化されている。すなわち夢の内容は、夢思考とは別の要素を中心として秩序づけられている(全5-p37)。夢縮合や夢遷移が生じる理由は、検閲が執行されて夢が歪曲されるためである。

視覚表現化(呈示可能性)

先ほどの遷移とは異なる遷移があるとフロイトは述べる。ある要素を別の要素によって置き換えるものではなく、ある要素が別の表現のされ方に置き換えられる。より簡潔に述べると、「色落ちのした抽象的な夢思考の表現が、絵画的で具体的な表現へと取り替えられる方向」へと進んでゆく(全5-p80)。ここにおいて、抽象的な夢思考は具象的な絵画的な言語へと置き換えられる。例えば「オペラの夢」では「秘められた愛」という抽象的な概念が「石炭」という具象的なものへと置き換えられている。このように、夢がなんらかの形で具象的なものを呈示するを試みを「呈示可能性への顧慮」と呼ぶ。ある抽象的な概念を象徴するだけではなく、矛盾や対立の関係を具象化して呈示したり、因果関係を夢の中の時間的順序として呈示したりする。

二次加工

どの顕在的内容の要素も潜在的思考と繋がりを持つのだが、そうではない例外がある。たとえば、夢のなかにおいて「気にするな。これは夢に過ぎない」という批判が起きる場合は分かりやすい。この批判は潜在的思考のなかにはなく、夢が予想外の方へ連鎖した時に検閲システムが付加したものだと考えられる。とするならば、夢の形成においても、検閲システムが関与している可能性がある。その可能性を追跡すると、検閲システムは夢に対して挿入や付加を施すことによって、夢の整合性を高めていることが明らかになり、この働きを二次加工と呼ぶ。この作業によって、「表面的な観察にとっては論理的に難がなくて正しく見える夢が出現する(全5-p268)。しかしながら、二次加工による整合性は見せかけに過ぎない。

夢形成の簡単なまとめ

夢の仕事は、圧縮、置き換え、視覚表現化、二次加工という四つであるが、二次加工は他の三つの夢の仕事に比べて強制力が弱いとされる。最後に、夢の形成を簡単にまとめておく。「夢形成に当たって心の仕事は、二つの作業に分かれる。一つは夢思考の制作であり、もう一つはその夢思考を夢内容へと変容させることである(全5-p287)。夢の独特さというのは、夢思考を夢内容へと変化させる夢の仕事にある。夢の仕事は、考えることや計算することや判断することといった覚醒時のようなシステムを取らない。夢の仕事は検閲から逃れるという目的のために遂行され、圧縮、置き換え、視覚表現化を駆使したうえ、最後に二次加工によって表面的に論理を整えて、こうして夢が誕生する。

七、夢過程の心理学

この章では、「お父さん、僕が燃えている」という幻想的な夢分析からはじめられ、本書の目的のひとつである夢を生む心的な力の正体が明らかにされてゆく。夢を心的過程として解明してゆく壮大な試みである。

(A)夢の忘却、抵抗の作用

夢を見てもすぐ忘れてしまうのはなぜか、そして想い出された夢は正しく再現できているのかと問われ、抵抗の力という観点から答えが与られる。夢を忘れてしまうのは抵抗の力が働くからであり、想い出された夢が正しく再現できないのも抵抗の力が働くからである。抵抗とは、夢思考が意識へ到達すること妨げる力であり、この抵抗を克服することで忘れた夢を想い出すことが可能になり、大抵の場合、抵抗によって忘却された箇所が重要な意味を持つ。睡眠中に夢が形成されるのは、夜に抵抗の力が弱まるからである。「睡眠状態は心のうちの検閲を低減させることによって、夢形成を可能ならしめる(全5-p312)

(B)心的装置による解釈、退行

無意識、前意識、意識

フロイトはフェヒナーの「夢の舞台は、覚醒時の表象生活の舞台とは別物である」という箇所を引用した後、心的局所論を導入する(全5-p325)。簡潔に述べるならば、心的営みを一つの装置のように捉えて理解しようとする試みである。心的装置の比喩として持ち出されるのは、顕微鏡や望遠鏡といった光学機械であり、幾つかのレンズに隔てられた場所を光が通過してゆくように、心的装置も幾つかの系(ψ系)に隔てられた場所を心的興奮が通過してゆくと考えられ、その系に無意識・前意識・意識という用語が割り当てられる。フロイトは一枚の図を用いて説明しているが、なかなか解釈が難しい図であり、簡単に説明できるものではないから詳細は省略するが、さしあたり矢印の方向を確認しておけばよい。

夢解釈の心的装置
心的装置 @『夢解釈』フロイトが描いた心的装置の図。「その背後にある系は、われわれが無意識Ubwと呼ぶものである。無意識は、前意識を通る以外には、意識の入り口を持たないから、そう呼ばれるのである。前意識への移行に際して、興奮過程は変化を甘受しなければならない(全5-p331)。補足すると、前意識の先には意識がある。この図を本格的に理解するには、『失語症の理解に向けて』や『心理学草案』といった初期フロイトの神経学の試みを精査しなければならないと考える。
退行

無意識から前意識を経由して意識へと向かう方向は前進的と呼ばれ、その逆の方向は退行的と呼ばれる。正常な心的過程において、心的興奮は前進的に流れるのに対して、夢や幻覚において、心的興奮は退行的に流れて、最後には知覚像にまで到達する。フロイトは、パラノイア やヒステリーの幻覚を分析しながら、「夢はまた、直近のものへの転移によって変化を蒙った、幼児期場面の代替物である」と述べる(全5-p338)。すなわち、大抵の場合、幼児期における場面が夢として回帰してくるのである。また、フロイトは、退行を三つの種類に分類し、局所論的退行、時間的退行、形式的退行と名付けてている。局所論的退行が心的装置を遡ることで、時間的退行が過去に遡ること、形式的退行が表現方法が遡ることを示している。

(C)望みを叶えること、欲望成就

夢の望みは無意識に由来する

夢は欲望成就を目的としているが、その望みの由来はどこにあるのか。フロイトは大まかに三つに分けて説明する。①昼間に誘発されたが達成されなかった望み、これは前意識のものである。②昼間に生じたが直ぐに禁圧された望み、これは前意識から無意識に押し戻されたものである。③昼間とは関係なく長らく禁圧されていた望み、これは無意識にずっと留まっているものである。子供は、無意識と前意識の間の検閲が形成途上であるために、昼間に達成されなかった望みを叶える夢を見る。一方で、大人の夢の望みは無意識に由来する。こうした無意識の欲望は、幼児期の欲望そのものである。

転移

不快な夢や、苦痛が生じる夢、懲罰夢、これらの夢も欲望成就である。たとえば不快な夢は、無意識の欲望と意識の欲望がずれていることによって生じる。無意識にある抑圧されたものが欲望を叶えようとして、自我がそれに憤慨するというずれである。続いて、夢に日中の些細な事柄が出てくることを説明するべく「転移」という用語が導入される。神経症において、「無意識の表象は、すでに前意識に属している無害な表象との関係を結び、その表象へと自分の強度を転移して、それでもって自分を隠してもらうことによってしか作用をそこで表出できない(全5-p358)。要するに、抑圧されたものが前意識に入るためには転移が必要なのであり、その隠蓑となるのが、些細で最近の日中の事柄、すなわち日中残渣なのである。

(D)夢による覚醒、不安夢

夢の経済性、前意識の拘束

前意識には眠り続けたいという欲望があり、これは否定できない一般的な態度である。しかしながら、眠り続けたい欲望があるにもかかわらず、覚醒をうながす夢があるから、この理由を説明しなければならない。無意識の望みは常に活動しているために興奮は満ちてゆくのだが、この興奮は運動として放散されるか、はたまた前意識が拘束することで管理するしかなく、通常の夢の形成過程においては、前意識による興奮の拘束が行われている。「無意識の欲望に好きなようにさせて、退行への道を自由に辿らせてやり、それによってこの欲望が一つの夢を形成するに任せて、前意識の仕事による少しの消費でこの夢を拘束し処理したほうが、無意識を睡眠の間中ずっと手なずけておくよりも、むしろ合目的的かつ安上がり」なのである(全5-p378)

覚醒する夢、不安夢

しかしながら、この興奮が前意識の支配下におけなくなった場合、すなわち無意識の欲望成就の動きが激しくなり過ぎた場合、興奮は溢れかえり、夢は直ちに覚醒へと向かう。夢による覚醒は発生する理由はこれである。なるほど、夜中に夢によって目覚めるのは、無意識の欲望が強大になりすぎた結果であるわけだ。続いて、フロイトは不安夢にの解説へ踏み込んでゆく。当時のフロイト理論において、抑圧されたものに付随した情動があり、この情動が迸出された時に不安として感知されるとされていた。よって、不安や恐怖で飛び起きてしまう不安夢は、抑圧された欲望の蠢きが強くなったことで発生すると考えられる。

(E)第一過程、第二過程、抑圧

いよいよ結論に近づいてゆき、心的興奮の経過によって夢が説明される。まず、夢の形成には二つの心的過程が参画している。一つ目の心的過程は、潜在的思考を無意識に取り込んで圧縮、混ぜこぜや妥協、音や意味での連想、矛盾の併存などの不合理なやり方で扱うもので、二つ目の心的過程は、合理的な夢思考を創造するいわゆる正常なものである。前者の過程が夢の仕事である。一つ目の心的過程は、備給されたエネルギーを放散することに価値をおいていて、これは一次過程と呼ばれる。この一次過程のうえに二次過程が築かれるのだが、フロイトはこう整理している。

第一の系のみが許容する心的過程を、私はいま一次過程と名づけることにしよう。一方、第二の系による制止の下で生み出される心的過程を、二次過程と名付けよう。(中略)。一次過程は、興奮の放散を追求する。それはこのように許容されて集積された興奮の大きさをもって、知覚同一性を作り出すためである、二次過程はこのような意図を捨て、その代わりに、思考同一性を達成するという別の意図を身につけた。

フロイト『夢解釈』

この難しい記述は、一九八五年の『心理学草案』を読み込まなくては理解しづらい。簡単に述べるならば、一次過程とは興奮を放散することだけを目的としているが、それを繰り返すばかりでは非効率で不快が多いために、その放散を制止する二次過程が作られるということである。こうした一次過程は心的装置に当初から存在しているが、二次過程は後々に作られるものであり、局所論的に考えるならば、一次過程は無意識系の特徴であり、二次過程は前意識系あるいは意識系の特徴である。「二次過程の後ればせの参入の結果、無意識の欲望から成り立っているわれわれの存在の核は、前意識にとっては理解も制止も及ばないものにとどまる(全4-p407)

(F)無意識と意識、そして現実

フロイトは局所論的な表現はあくまで比喩であり、そのままに捉えないように注意する。先ほどでは、無意識・前意識・意識にあたかも場所が割り当てられているかのように提示されて、それらの場所を表象が通り抜けるようなイメージだったが、実際はより力動的なものであり、エネルギーが備給されたり回収されたりすると考えなくてはならない。「可動的であると見えるのは、心的構築物そのものではなく、心的構築物の神経支配である」(全4-p415)。最後に、意識を過大評価しすぎないことが注意され、夢が神経症の理解に役立つという展望が語られて、著作は締め括られる。

『夢解釈』の仕事はここで打ち切られる。『夢解釈』はフロイト自身が述べるように、信じられないことも多く、厳密な証明も困難である。そのせいか、批判も多い著作である。とはいえ、夢を研究対象とする体系を確立した功績は大きい。夢についてのフロイトの興味は続いてゆく。興味がある方は、講談社学術文庫の『夢と夢解釈』や光文社古典新訳文庫の『フロイト、夢について語る』などで今後の展開が分かる。なお、ここで簡単にまとめたものは、膨大な著作の一部であるので、ぜひ本書を手にとってその魅力を感じて欲しい。

夢と建築水平面の入れ子の関係

――本の感想と簡単なメモ書き

水平面の入れ子の関係

ここからは簡単なメモ書きであるから、読み飛ばしてください。さて、建築家であるわれわれはあらゆる事柄と建築学との接点を常に考えている。必要なのは理論的な正しさではなく、建築設計として表現の経路を模索することである。『夢判断』を読み終えて印象に残った文章があるから、そこを引用することからはじめよう。

無意識は、意識という小さな圏域を含み込んだ、より大きな圏域である。あらゆる意識的なものには、その無意識の前段階があり、一方で無意識は、その前段階に在り続けて、それでも前的に心的な能作としての価値を要求しうるのである。無意識は、本来の意味で現実的な心的なものである。無意識は、その内的な本性に従い、外界の現実的なものと同様に、われわれには識られない。それは、外界が感覚器官からの報告を通じて不完全に与えられるのと同様に、われわれの意識の資料を通じて不完全に与えられるのである。

フロイト『夢解釈』

ここにフロイトが空間をいかに捉えていたのかが明らかになる。重要なことは、無意識と意識を同じ水平面に並べて入れ子の関係として扱ったことである。フロイトは『失語症の理解に向けて』や『心理学草案』での連合説から、この空間図式に到達することができた。この空間図式こそがフロイトの肝である。それまでの意識と無意識のイメージは、上下の垂直関係で把握されるもので、天国が上空にあり地獄が地下にあるように、意識が上にあり無意識が下にあるとされていた。それは、上部意識や下意識と呼ばれていたことに明確に表現される。『ヒステリー研究』において、ブロイアーはこう書いている。無意識的表象について語る時には、「光の中に立っている木の幹と闇の中の根という像とか、建物とそのくらい地下室という像が生じてくる」ことは避けがたいと(全2-p290)

フロイト自身、『夢解釈』のなかで下意識という言葉を否定している。「近年の精神神経症に関する文献の中で多いに好まれるようになった上部意識と下部意識という区別からも、われわれは自らを遠ざけておかなければならない。なぜなら、まさにこういう区別こそ、心的なものと意識的なものとを同等に扱うべきであると強調しているように見えるからである(全4-p420)。建築で考えるならば、上下の垂直関係は床によって区切られるが、水平の入れ子の関係は壁によって区切られる。その壁は、壁も西洋の石壁を想像するべきではない。前意識はまるで、屏風のようなもので、はたまた望遠鏡のレンズのようなもので、無意識と意識は一繋がりなのである。こうした意識と無意識の境界の曖昧さが、シュルレアリスムへと引き継がれた。(未完、どこかで書き足す)